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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第5章:整えられた街

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第47話 均された景色

均一に整えられた環境は、ときに「違和感」そのものを目立たなくする。

流れに逆らうことができても、その流れが止まるわけではない。

鏡淵の日常は、静かに個の存在を包み込んでいく。

 六月の神代学園は、梅雨の中にあった。


 でも、鏡淵の梅雨は、東京の梅雨と違った。

 東京の梅雨は、蒸し暑くて、じめじめしていて、空気が重かった。

 不快感があったが、それは生きている気候の証拠だった。

 

 鏡淵の梅雨は、適温だった。

 雨が降っても、気温が下がりすぎず、湿度が上がりすぎず、

 不快感が最小限に抑えられていた。

 それが自然の気候なのか、神代重工の何らかの技術によるものなのか、

 ほのかには判断できなかった。


 でも、その「快適すぎる梅雨」が、少しだけ気持ち悪かった。


     * * *


 ある朝、ほのかは意図的に動きを止めた。

 登校途中、正門の手前で立ち止まった。

 流れに逆らってみた。


 生徒たちが、等間隔に正門を通り抜けていく。

 その流れに逆らって、ほのかだけが止まった。

 

 すると、不思議なことが起きた。

 誰もぶつからなかった。

 

 ほのかが止まっていても、後ろから来た生徒たちは自然に避けて、

 流れが維持された。

 ほのかの周りだけが、小さな「よどみ」になって、


 でも全体の流れは乱れなかった。

 まるで、水の中に石を置いたときのように。

 石の周りだけが変わって、川全体は続いていく。


(揃えようとしてる)


 ほのかは思った。

 この流れは、ほのかという「異物」を飲み込もうとしていた。

 排除するのではなく、取り込もうとしていた。

 

 ほのかが止まっても、世界は止まらない。

 世界はほのかを避けて、それでも流れていく。


     * * *


 教室でも、同じ実験をした。

 授業中、意図的にノートを取る手を止めた。

 視線を外した。教師の話に合わせた頷きをやめた。


 教師の説明は続いた。クラスメートの鉛筆の音が続いた。

 何も変わらなかった。

 ほのかが「流れ」から外れても、世界は何事もなかったように進んでいく。


(うちがいなくても、この世界は動く)


 その事実は、東京でも分かっていた。

 でも、鏡淵では、その「分かっていた」がより具体的に、

 より残酷に、体感できた。


 ほのかという存在が、この世界の流れに必要とされていない。

 必要とされていないのではなく——ほのかが抜けても、

 世界が自動的に補完する。

 ほのかがいた場所を、何かが埋める。

 だから、流れが乱れない。

 

 それが、ほのかには一番怖かった。


     * * *


 昼休み、ほのかは夕莉を捕まえた。

 他の三人からは離れて、廊下の窓際で二人で話した。


「夕莉ちゃん、一つ聞いていい」

「うん」

「この街、変やと思わへん?」

 夕莉は、少しだけ間を置いた。

「どういう意味で」

「みんなの動きが、揃いすぎてる。誰も流れを乱さへん。誰かが止まっても、世界が勝手に補完する」


 夕莉が、窓の外を見た。

「気づいてたんだ」

「気づいてたってことは、夕莉ちゃんも?」

「うん」

「いつから」

「来た日から」

 ほのかは少しだけ驚いた。

「なんで言わへんかったの」

「言葉にすれば、確定するから」


 また、その言葉が出てきた。言葉にすれば確定する。夕莉もそれを使う。夕莉が、何度も何かを言いかけて止まってきた理由が、これだったのかもしれない。

「でも、確定させた方がいいこともある」

 ほのかが言うと、夕莉は静かに頷いた。

「分かってる」

「だから、今日、私に話しかけたの?」

「うん。そうや」

 夕莉が、窓の外から視線を戻した。

「ほのかちゃんに、教えておきたいことがある」


 その言葉に、ほのかは興味を惹かれた。

「なに?」

「この街の鏡は、何かと呼応してる」

 ほのかは、少しだけ背筋が冷えた。

「呼応って」

「東京の鏡とは、質が違う。この街の鏡の前に立つと、空気が変わる。鏡の深さが、普通の鏡じゃない」

「夕奈ちゃんが、先に動くやつ」

「それだけじゃない」


 夕莉が、周りを気にしながら、少しだけ声を落とした。

「この街全体が、何かに向かって、揃おうとしている。鏡がその焦点になってる気がする」

「何に揃おうとしてるの」

「分からない。でも、揃えようとする力が、確かにある」


 ほのかは、街の外に出られなかった経験を思い出した。

「出口がないんや、この街」

「うん」

「夕莉ちゃんも、試してみた?」

「試さなくても、分かった」

 夕莉が、また窓の外を見た。

「でも、怖いのは出口がないことじゃない」

「じゃあ、何が怖いの」


 夕莉は、少しだけ間を置いた。

「お姉ちゃんが、出口を探そうとしないことが、怖い」


 その言葉が、ほのかの胸に刺さった。

 夕奈は、この街に違和感を持っていない。

 揃えようとする力に、抵抗していない。

 むしろ、その力に乗ることを、安心として受け取っている。


(そっちの方が、怖い)


 ほのかは思った。

 閉じた街よりも、閉じていることに気づかない人の方が、もっと怖い。


 廊下の向こうから、チャイムの音が聞こえた。

 昼休みが終わる。


 二人は話を切り上げ、教室に戻った。

 足音が、また揃い始めた。

揃いすぎた世界では、異物は排除されるのではなく、なめらかに取り込まれていきます。

気づいた者だけが違和感を抱え、気づかない者はそのまま安らぎの中に沈んでいく。

その分岐が、少しずつ物語の温度を変えていきます。

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