第46話 境界の発見
「外へ出る」という行為は、本来もっと単純なもののはずだった。
しかし、境界が見えない街では、その単純ささえ揺らぎ始める。
鏡淵という空間は、静かに“外側”の意味を変えていく。
六月の初め、ほのかは街の外に出ようとした。
理由は単純だった。
鏡淵に来て二ヶ月が経って、ほのかはまだ「街の外」を見たことがなかった。
学校と家と、その間の道だけを行き来していた。
東京なら、電車に乗ればどこへでも行けた。
でも鏡淵では、そういう「どこへでも」という感覚が、自然に薄れていた。
試してみよう、と思った。
土曜日の午後、一人で歩き出した。
晴斗には「ちょっと出かける」とだけ言った。
夕奈には言わなかった。
地図アプリを開いて、鏡淵の外に続く道を確認した。
北の方向に、幹線道路がある。そこを進めば、隣の街に出られるはずだった。
歩き始めた。
整った街路を、まっすぐに北へ向かった。
建物が続く。
街路樹が続く。
信号が変わる。
人が歩いている。
全部、いつも通りの鏡淵の景色だった。
十分ほど歩いたとき、ほのかは気づいた。
自動販売機のある交差点の前に、また来ていた。
(あれ?)
振り返った。
来た道が、後ろに続いている。
確かに、まっすぐ歩いてきたはずだ。
右にも左にも曲がっていない。
でも、ここは出発地点の近くの交差点だった。
地図アプリを見た。現在地が、出発点とほぼ同じ場所を示している。
(どういうこと)
もう一度、北を向いて歩き始めた。
今度は、意識して足を進めた。
右、
左、
まっすぐ。
曲がらない。
道なりに進む。
十分後、また同じ交差点にいた。
自動販売機。
角の薬局。
信号機。
全部、同じ場所だった。
ほのかは立ち止まって、深呼吸した。
地図アプリを再確認した。
外に続く道は、確かにある。
地図上には、ちゃんと道が引かれている。
でも、その道を歩いても、同じ場所に戻ってくる。
(ループしてる)
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
* * *
三回試した。
北へ向かう道、東へ向かう道、南へ向かう道。
全部、同じ交差点に戻ってきた。
西だけは試さなかった。
西には神代重工の研究棟がある方角で、なんとなく向かう気になれなかった。
四回目に、ほのかは違う方法を試した。
道路ではなく、公園の中を通る経路を選んだ。
芝生の上を歩いて、フェンスの向こうへ出ようとした。
フェンスの手前で、足がすくむ。
止ろうとして止まったのではなく、足はこれ以上先に進むことを拒む。
自分の意志とは別に、体が前に進まなくなった。
足が重くなったわけでも、恐怖を感じたわけでもない。
ただ、フェンスの向こうへ踏み出す、という動作が——できなかった。
まるで、そこから先は「行くべきでない場所」として、
体に刻まれているかのように。
ほのかは、フェンスに手を触れた。
鉄の感触があった。冷たくて、硬くて、現実のフェンスだった。
でも、その向こうへ出ることは、できなかった。
* * *
帰り道、ほのかは地図アプリを見ながら歩いた。
地図には、鏡淵の外への道が存在している。それは間違いない。
隣の街への道路も、
電車の路線も、
ちゃんと描かれている。
でも、実際には出られない。
地図の上の「外」と、現実の「外」が、繋がっていない。
(この街は閉じてる)
その確信が、歩きながら固まっていった。
物理的に閉じているのか、
認知的に閉じているのか、
あるいは別の何かによって閉じているのか——まだ分からなかった。
でも、鏡淵町は外と繋がっていない。
少なくとも、ほのかにとっては。
晴斗の家に帰ると、晴斗がリビングにいた。
「どこ行ってたんだ?」
「ちょっとな」
「遅かったな」
「いろいろ歩き回って疲れてん」
ほのかは、街の外に出られなかったことを、今日は言わなかった。
言葉にすれば、確定する。
でも、自分の中だけは、確定させておく必要があった。
(この街には、出口がない)
その事実を、まず自分の中に刻んだ。
それから先のことは、また考える。
夕奈が、リビングから晴斗を呼ぶ声がした。
ほのかは、コートを脱ぎながら、窓の外を見た。
整った街並みが、夕方の光の中に広がっていた。
どこまでも、整っていた。
道があることと、そこを通れることは同じではない。
見えている出口が、必ずしも繋がっているとは限らない。
その違和感に触れたとき、日常は少しだけ別の輪郭を持ちはじめます。




