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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第4章:神代学園都市

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第45話 均された世界の予感

整いすぎた街は、ときに何もかもを均一にしてしまう。

そこでは、変化もまた静かに進行し、気づいたときには形を変えている。

鏡淵での日常は、その「ゆっくりとした異変」のただ中にあった。

 五月の終わり、夕焼けが緋色だった。


 鏡淵の夕焼けは、東京のそれとは違う。

 東京の夕焼けは、ビルに遮られて、空の一部にだけ色が残る。

 鏡淵の夕焼けは、遮るものが少ないせいか、空全体が染まる。

 どこを見ても同じ緋色が広がっていて、その均一さが、

 美しいと同時に、少しだけ息苦しかった。


 晴斗は一人で、帰り道を歩いていた。

 今日は、夕奈より先に教室を出た。

 珍しいことだったが、委員会の仕事で別の棟にいて、

 合流する前に歩き始めてしまった。

 

一人で歩く鏡淵の街は、四人で歩くときと、少し違って見えた。

 整っていることは同じだ。街路樹の間隔、石畳の配置、信号のタイミング。

 でも、一人でいると、その整いが「自分のためではない」ことが分かりやすくなる。


 この整いは、誰かが設計したものだ。

 その「誰か」の意図の中を、自分は歩いている。


     * * *


 帰り道の途中、神代重工の研究棟が見える場所を通った。

 あの白い塔。窓のない外壁。光を吸収するだけで反射しない建物。


 鏡淵に来て二ヶ月が経ったが、あの塔に慣れることがなかった。

 見るたびに、何かを感じる。

 圧迫感というより——存在感とでも言えばいいか。

 そこに「ある」ということが、強く主張されている感じ。

 

 宗一は、あそこで働いている。

 YU-NAという記号で、夕奈を呼んでいる誰かも、あそこにいるのかもしれない。

 朔也も、あそこの関係者だ。

 

(この街全体が、あの塔を中心に設計されているんじゃないか)

 

 そう思ったのは、初めてではなかった。

 でも今日は、その確信がより強かった。


 鏡淵町は、神代重工の街だ。

 学校も、道路も、住宅地も——全部が、神代重工の設計の上にある。

 そしてその中心に、八咫の鏡がある。

 夕莉がノートに書いていた、鏡淵の鏡の大元。


     * * *


 電話が鳴った。

 夕奈からだった。


「お兄ちゃん、どこにいるの」

「帰り道」

「待ってたのに」

「ごめん、先に出た」

「今から来る?」

 晴斗は少しだけ考えた。

「そっちから来れるか」

「道なら、分かるから」

「じゃあ、この辺で待ってる」

 電話を切って、晴斗は立ち止まった。


 周囲を見回す。

 街路樹が、等間隔に並んでいる。

 その間から、神代重工の塔が見える。空は、まだ緋色だった。

 

 待ちながら、晴斗は考えた。

 鏡淵に来て二ヶ月。

 夕奈は変わっているか。

 

 サンドイッチを自分で選んだ日のことを思い出した。

 あの日の「美味しかった」の温度を。

 でも、その次の日には、また晴斗に聞いていた。

 一回できて、翌日に戻った。


 ほのかが「おかしい」と言った日のことを思い出した。

 夕奈の動作に生じた「ズレ」を。

 あれは確かに夕奈の中の何かに触れた。

 でも、その後の夕奈はまた、元に近い状態に戻っていた。


(この街が、戻させているのかもしれない)


 その考えが浮かんだ。

 ほのかの言葉で夕奈が少し変わっても、

 この街の「揃えようとする力」が、また元に戻す。


 個人の意志より、街の力の方が強い。

 それが、鏡淵という場所なのかもしれない。


     * * *


 足音が聞こえてきた。

 夕奈だった。

 小走りで来て、晴斗を見つけた瞬間に、足を緩めた。

 そのまま速度を落として歩き、晴斗の隣に並ぶ。


 袖を掴む。

 いつも通りの動作。


「お待たせ」

「別にいいよ。そんなに待ってない」

「どこか行ってたの?」

「ぶらぶらそのあたり、歩いてただけだよ」

「一人で?」

「そう」


 夕奈は、少しだけ不思議そうな顔をした。

 晴斗が一人で歩いていることが、珍しかったのだろう。


「寂しくなかった?」

「別に」

「ふうん」


 また歩き始めた。二人で、帰り道を歩く。

 夕焼けが、二人の影を長く引き伸ばしていた。

 晴斗の影と、夕奈の影が、並んで伸びている。


 その影の形が、ほんのわずかに——

 夕奈の影だけが、晴斗の影に向かって傾いていた気がした。

 物理的にはありえない傾き方だった。

 でも、一瞬だけそう見えた。


「お兄ちゃん」

「なに?」

「ここの生活、慣れてきた?」

 晴斗は少しだけ考えた。

「慣れてきたとは思う」

「良かった......」

「夕奈は? どうなの」

「私はもう、慣れたよ」


 その「もう慣れた」が、少しだけ早すぎる気がした。

 東京では、引っ越しが決まってから数週間、不安を見せていた。

 なのに、ここに来て二ヶ月で「もう慣れた」。


 それは、この街に溶け込んだということなのか。

 それとも、この街の「揃えようとする力」に、取り込まれたということなのか。


「夕奈」

「うん」

「ここに来て、何か変わったことってある? 自分の中で」

 夕奈が、少しだけ考えた。

「……お兄ちゃんのそばにいたい気持ちが、もっと強くなった」

「それだけ?」

「……うん」


 その答えが、晴斗には怖かった。

 変化として認識しているのが、そこだけだということが。

 自分で決められなくなっていること、

 言葉が減っていること、

 夕莉が観測していた変化——

 そういう全部が、夕奈自身には見えていない。

 見えないのか、

 見ようとしないのか、あるいは——

 この街が、見えないようにしているのか。


(もっと、失うことが加速する)


 その予感が、今日ははっきりと来た。

 鏡淵で過ごす時間が長くなるほど、夕奈の「自分」が薄れていく。

 その速度は、東京にいた頃より確実に速い。


 どうすればいいか、まだ分からない。

 でも、この予感だけは、確かなものとして受け取った。


 二人の足音が、また揃い始めた。

 どこかで、誰かが合わせているわけじゃない。

 でも、揃っていく。


 夕焼けが、また少し濃くなっていた。

 空全体が、同じ色に染まっていく。

 

 その均一な赤の中を、

 二人は家へと向かって歩き続けた。

揃うことは安心に似ている。けれど揃い続けることは、時に個を薄めていく。

その中で残るわずかな違和感だけが、まだ選び直せる可能性を示しているのかもしれません。

夕焼けの均一な赤は、その象徴として静かに広がっていきます。

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