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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第4章:神代学園都市

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第44話 線を引く(第一回)

整いすぎた日常の中で、小さな違和感は見過ごされやすい。

誰かにとっての「当たり前」は、別の誰かにとっては確かに揺らぎとなる。

その揺らぎが、初めて言葉として表に出た日があった。

 五月の連休が明けた週のことだった。


 ほのかが、夕奈に言った。

 正確には、言いかけて、今度は最後まで言い切った。


     * * *


 きっかけは、些細なことだった。


 放課後、四人で帰る途中、自動販売機の前で立ち止まった。

 ほのかが「何か飲もう」と言い出して、みんながそれぞれ選び始めた。

 夕奈は、晴斗の隣に立って、晴斗が選んだものを見てから、

 同じものに手を伸ばした。

 ほのかは、その動作を見ていた。


「夕奈ちゃん」

 声をかけた。

「なに?」

「自分が飲みたいの、選んで」

 夕奈が、少しだけ首を傾けた。

「これ、飲みたいけど」

「晴くんと同じやつやんか」

「それがいいから」

「ほんまに? 晴くんが別のを選んでても、それにする?」


 夕奈は、少しだけ考えた。

「……晴斗お兄ちゃんが選んだやつが、おいしそうだから」

「それは、自分で選んでることと違う」

 ほのかの声が、少しだけ低くなった。

 晴斗が、少し緊張したように二人を見ていた。夕莉は一歩引いて、観測していた。

「ほのかちゃん、なんか怒ってる?」

「怒ってへんよ」

「でも、声が」

「怒ってへん」


 ほのかは、深呼吸した。

 東京で何度も言いかけて、何度も飲み込んできた言葉が、今日はどういうわけか、止まらなかった。

「ただ、うちはおかしいと思う」

 ようやく口にできたその言葉を、突きつけるように放った。

 夕奈が、少しだけ固まった。

「何が」

「夕奈ちゃんが、自分で決められなくなってること」

 はっきりと、言った。

「何を食べるか、どこに行くか、何時に帰るか——全部、晴くんに確認してから動いてる。それが、うちにはおかしく見える」


 沈黙。

 自動販売機の前で、四人が止まっていた。道の端で、通行人が何人か通り過ぎた。

「……おかしくない」

 夕奈が、静かに言った。

「どこが?」

「お兄ちゃんに合わせたいだけ。それの何がいけないの」

「合わせたい、と合わせないと不安、は違う」

「同じだよ」

「違う」


 ほのかは、夕奈を見た。

 夕奈の表情が、少しだけ変わっていた。

 笑顔が消えて、でも怒ってもいない。

 何か別の、名前のつけにくい表情だった。


「ほのかちゃんには、関係ない」


 夕奈が言った。

 その言葉は、決して攻撃的ではなかった。

 ただ、すでに終わったこととして扱うような、確定的な響きがあった。

 私とお兄ちゃんのことは、あなたには関係ない、

 ……という境界線を引くような。その線を、一歩踏み越えるように、

「関係あるよ」

 ほのかは、そう返した。

「うちは晴くんの幼馴染やから。そして、夕奈ちゃんのことも心配してるから」

「心配しなくていい」

「できへん」


 二人の間に、沈黙が下りる。

 晴斗が、口を開きかけて、止まった。

 夕莉は固唾を飲んで、無言でその場を見つめている。

 周囲の視線を浴びながら、夕奈の視線が、わずかに彷徨う。


     * * *


 やがて、夕奈が動いた。


 自動販売機に向かって、ボタンを押した。

 晴斗が選んだものとは、違う飲み物だった。


 オレンジジュース。

 取り出して、少しだけほのかを見た。

「私は......これが飲みたかったの」

 その声に、どういう感情が乗っているか、ほのかには判断できなかった。

 でも、夕奈の動きが——ほんのわずかに、ズレていた。


 袖を掴む手が、わずかの間、遅れた。

 笑顔の立ち上がりが、これもわずかに遅れた。

 いつもは完璧に自然な夕奈の動作が、今日だけは、少しだけ乱れていた。


(ほのかちゃんに言われて、何かが揺れた)


 夕莉は、その変化を観測した。

 完璧だった夕奈の「揃え方」に、今日初めて、綻びが生じた。


     * * *


 帰り道、四人はあまり話さなかった。


 夕奈は晴斗の袖を掴んでいたが、いつもより少しだけ力が弱かった。

 ほのかは、少し後ろを歩いていた。言い切ってしまったことへの後悔と、言えてよかったという気持ちが、両方あった。


 家の近くで、夕奈が振り返った。

 ほのかを見た。


「ほのかちゃん」

「なに」

「今日のこと、覚えとく」


 それだけ言って、また前を向いた。

 ほのかは、その「覚えとく」が何を意味するのか、分からなかった。


 謝罪なのか、宣言なのか、それとも別の何かなのか。

 でも、夕奈の動作に生じた「ズレ」が、今日の言葉が届いた証拠だと、

 ほのかは思った。


 届いた。

 かどうかは分からない。でも、何かに触れた。

 それだけで、今日は十分だと思った。


 曇り空の下、四人は家への道を歩き続けた。

 足音が、今日だけは、少しだけばらばらだった。

正しさと優しさは、ときに同じ形をしているようでいて、向かう先が違うことがあります。

揃っていくものと、揃えられていくもの。その境界は、いつも曖昧です。

小さな「ズレ」が残る限り、この物語はまだ止まりません。

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