第44話:触れてはいけない領域
断片は、集まるほどに意味を持つ。
けれど、その意味に名前を与えた瞬間、もう後戻りはできない。
触れないことで保たれていたものは、触れた瞬間に変わる。
夕食の準備は、いつもよりわずかに遅れて始まった。
時計の針の音が、やけに意識に残る。
時間そのものは変わらないのに、
間の取り方だけが少しずれているように感じられる。
キッチンに立つのは、ほのかと夕奈。
包丁の動きは自然で、野菜を刻むリズムにも無理はない。
トントン、と音が続く。
少し遅れて、似た音が重なる。
完全には一致しない。
それでも、近い。
「今日、遅いんやろ」と、ほのかが言う。
「うん、設備の調整って言ってた」夕奈は鍋を見ながら、水の量を調整する。
「そんな遅くまでやるもんなん?」
「夜のほうが影響少ないからって」と、迷いのない答え。
ほのかは手を止め、「影響って、何に?」と尋ねた。
視線を上げ、夕奈は一瞬だけ間を置く。
「街の動き、かな」と、今度は曖昧な言い方。「電気とか水とか、そういうの全部」
正しい説明。
それ以上は踏み込まない。
ほのかは小さく頷く。
鍋の水が震え始める。
そのとき、キッチンの奥の端末が短い音を鳴らす。
電子音。
一定。
短い。
夕奈がすぐに近づき、画面を見る。
「どうしたん?」とほのかが尋ねる。
「……更新通知」夕奈の視線は画面を向いたまま。
「システムの?」
「うん、そういうやつ」と、曖昧に流して答える。
ほのかは画面をちらりと見る。
整ったフォント。
均一な間隔。
その中に、異物のような単語。
“YATA”。
英字。
短い。
意味は分からない。
それでも、残る。
次の瞬間、画面は通常表示に戻る。
「なんでもないよ」と、振り返って夕奈は言う。
ほのかは追わない。
追えば、答えは返ってくる。
それがどこまで本当かは別として。
調理は続く。
滑らかに。
無駄なく。
リビングに運ぶ。
夕莉が座り、晴斗も戻っている。
全員が揃う。
食事が始まる。
揃わない。
それでも崩れない。
その中で、ほのかはさっきの単語を反芻する。
“YATA”。
設備。
宗一。
点が増える。
「そういえばさ」と、晴斗が言う。「この前、父さんが言ってたやつ」
視線が泳ぐ。
「なんか、大きい調整があるとか」
その一言で、夕奈の手が止まる。
ほんの一瞬。
すぐに動き出す。
「そうなの?」と、夕莉が聞く。
「さあ、詳しくは」
話は流れる。
終わる。
それでも、その言葉だけが残る。
大きな調整。
通知。
設備。
線になりかける。
夕奈は何も言わない。
ただ食べる。
整っている。
崩れない。
ほのかは箸を動かす。
自分の動きを確かめる。
この街は、何かに支えられている。
そこに、人が関わっている。
そして、その中心に宗一がいる。
確証はない。
それでも、形は見え始めている。
名前はまだない。
ただ一つだけ分かる。
これは。
触れてはいけない領域に近い。
“整っている”という安心と、“整えられている”という不安は、ほとんど同じ形をしている。
違いは、気づくかどうかだけだ。
そして一度気づいてしまえば、その境界は二度と元には戻らない。




