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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第4章:神代学園都市

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第43話 宗一の苦悩

鏡淵での生活は、穏やかだった。

整った街、揃った時間、自然に噛み合っていく日常。

けれど、その「心地よさ」の中で、少しずつ失われていくものがある。

それに最初に気づいたのは、きっと晴斗だけではなかった。

 深夜の書斎は、いつも電気がついていた。


 晴斗が水を飲みに起きると、一階の廊下の奥に、書斎の光が漏れていた。

 宗一がまだ起きている証拠だった。

 東京でも同じだったが、鏡淵に来てから、その頻度が増した気がした。


 ある夜、晴斗は書斎の前で足を止めた。

 扉の向こうから、声が聞こえた。

 宗一の声だった。電話をしているらしかった。

 低くて、抑えた声。内容は聞き取りにくかったが、断片的に言葉が届いた。


「……まだ、許容範囲内だ」


相手の反応を待つような、重苦しい間があく。


「……分かってる。でも、もう少し時間が欲しい」


吐き出すような吐息のあと、宗一はさらに言葉を重ねた。


「……それは、朔也の判断に任せている」


 晴斗は、その「朔也の判断に任せている」という言葉を反芻するように、

 一瞬、動きを止めた。


     * * *


 何の判断を、朔也に任せているのか。

 扉の向こうの声が続く。


「……YU-NAの状態は、現時点では安定している」


 YU-NA。

 

 その言葉が、晴斗の頭の中で光った。

 東京の食卓で、宗一の書類に書いてあった文字列。

 宗一が手で隠した、あの文字。


 YU-NA。

 夕奈の名前を、アルファベットで書いたものだ。


(父さんの書類に、夕奈の名前があった)


 当時は「関係ない」と言われて、それ以上聞けなかった。

 でも、こうして深夜の電話でも、同じ言葉が出てくる。

 

 夕奈の「状態」を、宗一は誰かに報告している。

 その事実が、晴斗の中に、冷たい重さを持って落ちた。


     * * *


 翌日の夕方、晴斗は宗一に話しかけた。

 書斎の扉をノックし、返事を待った。


「空いてる。入っていいぞ」


 宗一は机に向かっていた。

 資料が広げられていて、その中にいくつかの専門用語が見えた。

 晴斗には読み解けない言葉ばかりだった。


「少しいいですか」

「何だ」

「昨夜、電話してたみたいで」

 宗一が、少しだけ動きを止めた。

「聞こえたか」

「少しだけ」

「どのくらい」

「……YU-NAの状態は安定している、というところだけ」


 宗一が、椅子を少し引いて、晴斗の方を向いた。

 その顔が、どこか疲れていた。

 いつも疲れているように見える宗一だが、今日はその疲れが少し深かった。


「心配させたなら、すまない」

「夕奈のことですか」

「……ああ」

「どういう状態を、報告してるんですか」

 宗一は少しだけ黙った。

「研究上の観測だ。お前には関係ない」

「でも」

「晴斗」

 宗一が、静かに言う。

「お前には、夕奈のそばにいてほしい。それだけだ」

「それだけって」

「今は、それだけでいい」


 それ以上は言わなかった。

 晴斗は、聞けなかった。

 宗一の顔に、「これ以上は話せない」という壁があった。

 意地悪ではなく、言えない理由があるような、そういう壁。

「……分かりました」

 これ以上、今日はあきらめるしかなかった。晴斗は書斎を出た。


     * * *


 廊下を歩きながら、晴斗は考えた。

 宗一は夕奈の状態を観測している。

 朔也に何かの判断を任せている。

 YU-NAという記号で、夕奈を呼んでいる。

 

 それは、夕奈が「研究の対象」として扱われているということか。

 その可能性が浮かんだとき、晴斗の胸に、ひどく嫌な感触が来た。

 

 夕奈は、実験の対象じゃない。

 でも、それを宗一に言う言葉が、今の晴斗にはなかった。

 証拠がない。

 確信がない。

 ただ、深夜の電話の断片と、書類のアルファベットと、

 朔也の「夕奈ちゃんの状態」という言い方だけがあった。


(朔也さんは、何を知っているんだ)


 その問いが、また浮かんだ。

 でも、朔也に直接聞くことも、今の晴斗にはできなかった。

 廊下の窓から、神代重工の研究棟が見えた。


 窓のない白い塔が、夕方の光の中に立っていた。

 光を吸収するだけで、反射しない。

 その建物が、今日は少しだけ、違う意味を持って見えた。


 晴斗は、視線を外して、自分の部屋に戻った。

 夕奈が、もうそこで待っていた。

「遅かったね」

「ちょっと用事があって」

「待ちくたびれて、お腹空いたよ」

「もうすぐご飯だろ」

「お兄ちゃんと一緒に食べたい」


 その言葉が、今日はいつもより少しだけ重く聞こえた。

 でも晴斗は、それを表情に出さずに「一緒に行こう」と言った。


 夕奈が笑った。

 晴斗は、その笑顔を見ながら、

 宗一の書類のことを、頭の隅に静かに押し込んだ。

「決めなくても流れていける場所」は、優しいのかもしれません。

でも、自分で選ぶ痛みまで失ってしまったとき、人はどこまで“自分”でいられるのでしょう。

整い始めた鏡淵の中で、それぞれの違和感が少しずつ形になっていきます。

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