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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第5章:整えられた街

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第48話 外れたままでいること

鏡淵という均一に整えられた街の中で、

ほのかは「ズレ」を作る実験を繰り返す。

しかし世界はそれを拒まず、静かに元へと戻していく。

揃い続ける日常の中で、

街の構造そのものへの違和感が輪郭を持ち始める。

 ほのかは、実験を続けたていた。

 毎日、小さな「ズレ」を作っていた。


 歩幅を変える。

 授業中に違うタイミングで手を挙げる。

 みんなが右を見ているときに左を向く。

 並ぶときに一歩分だけ前後をずらす。


 どれも、些細なことだった。

 でも、全部が同じ結果になった。

 世界が、ほのかのズレを飲み込んだ。

 歩幅を変えても、気づけば元のリズムに戻っている。

 左を向いても、視線を引き戻すような何かが働く。

 ずらして並んでも、自然な流れの中でいつの間にか元の位置に収まっている。


(戻される......)


 それが、ほのかの感じていることだった。

 強制的に戻されるのではない。

 暴力的な力があるわけでもない。

 ただ、自然に、気づかないうちに、元の配置に戻っている。

 

 その「気づかないうち」が、一番怖かった。


     * * *


 ある日の放課後、ほのかは意図的に三人と別行動を取った。


「先に行っといて」と言って、教室に残った。


 三人が出て行った後、五分待って、一人で廊下に出た。

 校舎の西棟を通って、第2音楽室に向かった。

 部活の準備があるという口実は本当だった。


 西棟の踊り場を通った。

 大きな姿見の前に、一人で立った。


 鏡を見た。

 自分の姿が映っている。制服。オーボエのケース。


 体を動かしてみる。

 左に一歩。

 右に一歩。

 腕を上げる。

 首を傾ける。


 鏡の中の自分が、同じ動きを返してくる。

 同時に。当然のように。

 何もおかしくない。


 でも——この鏡の前に立つと、空気が変わる。

 夕莉が言っていた「深さ」が、確かにある気がする。


(これが、夕奈ちゃんの動きが先に映る鏡)


 ほのかは思いながら、鏡を見続けた。

 夕奈がいないから、異常は起きない。

 でも、この鏡が「何か」を持っていることは、ここに立てば分かる気がした。


 なんとなくだが、普通の鏡とは、質が違う、気がする。

 東京の古い鏡と似ているが、あれよりずっと鮮明に、その「違い」を感じさせる。

 ほのかは、一分ほどそこに立っていてから、踊り場を離れた。


     * * *


 音楽室での練習が終わったのは、夕方だった。

 

 帰り道、ほのかは一人で家路を歩いていた。

 三人はすでに帰っているはずだった。

 

 一人で歩く鏡淵は、やはり整っていた。

 でも今日は、ほのかはその整いに逆らうことをやめた。

 逆らっても戻される。

 それは分かった。

 ならば、逆らわずに歩きながら、観察する。


 この街が何をしているのか。どうやって「揃え」ているのか。

 歩きながら、観察した。


 信号のタイミング。

 街路樹の間隔。

 すれ違う人の速度。

 建物の配置。

 光の当たり方。


 全部が、計算されている。

 でも、その計算の「目的」が、まだ見えなかった。

 何のために、揃えているのか。

 朔也が言っていた「ズレを排除することが合理的」という論理は、

 手段の説明であって、目的ではない。

 

 いったい、何を得るために、揃えているのか。


     * * *


 瀬戸家に帰ってくると、夕奈が玄関で待っていた。


「遅かったね」

「部活で、練習しててん」

「一人で帰ってきたんだ」

「そうや」


 夕奈が、少しだけ不思議そうな顔をした。


「一人で帰っても、大丈夫?」

「大丈夫やって」

「迷子にならなかった?」

「鏡淵で迷子になる方が難しいわ」


 夕奈が、少し笑った。

「そうかも」


 その「そうかも」が、ほのかには少しだけ引っかかった。

 夕奈は、この街の整いを「便利」として受け取っている。

 迷子にならない、

 道に困らない、

 流れに乗れる——それが、夕奈にとっては安心の理由になっている。

 でも、ほのかにとっては、それが恐怖の理由だった。


「夕奈ちゃん」

「うん」

「この街、出口ないって知ってる?」

 夕奈が、少しだけ首を傾けた。

「出口って」

「街の外に出られへんの。試してみたけど、同じ場所に戻ってくる」

 夕奈は、その言葉を聞いて、少しだけ考えた。

「……そうなの?」

「そうやった」

「でも、別に出る必要もないし」


 その答えが、ほのかには怖かった。

 出る必要もない。

 閉じていることを、問題として認識していない。

 むしろ、閉じているからこそ安全だと思っているかもしれない。


「ほのかちゃんは、出たいの?」

「うん」

「なんで?」

「……閉じてるのが、嫌やから」

 夕奈は、少しだけ静かになった。

「わたしは、嫌じゃない」


 その言葉が、静かに落ちた。

 ほのかは、返す言葉を持たなかった。


 玄関の扉が、まだ開いていた。

 外の空気が、少しだけ入ってきていた。


 夕奈は、その外の空気を気にしていないようだった。

 するともう話は終わりとばかりに黙ったまま踵を返し、

 晴斗の部屋の方向へ廊下を歩き始めた。


 ほのかは、開いた扉からしばらく視線を外さなかった。

 それから、そっと閉めた。

外へ出ようとした試みは、出口の不存在として回収される。

ほのかは「閉じている街」を認識するが、夕奈はそれを問題と感じない。

ズレを許さない世界と、それに適応していく人間たちの差異だけが、

静かに浮かび上がる。

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