第48話 外れたままでいること
鏡淵という均一に整えられた街の中で、
ほのかは「ズレ」を作る実験を繰り返す。
しかし世界はそれを拒まず、静かに元へと戻していく。
揃い続ける日常の中で、
街の構造そのものへの違和感が輪郭を持ち始める。
ほのかは、実験を続けたていた。
毎日、小さな「ズレ」を作っていた。
歩幅を変える。
授業中に違うタイミングで手を挙げる。
みんなが右を見ているときに左を向く。
並ぶときに一歩分だけ前後をずらす。
どれも、些細なことだった。
でも、全部が同じ結果になった。
世界が、ほのかのズレを飲み込んだ。
歩幅を変えても、気づけば元のリズムに戻っている。
左を向いても、視線を引き戻すような何かが働く。
ずらして並んでも、自然な流れの中でいつの間にか元の位置に収まっている。
(戻される......)
それが、ほのかの感じていることだった。
強制的に戻されるのではない。
暴力的な力があるわけでもない。
ただ、自然に、気づかないうちに、元の配置に戻っている。
その「気づかないうち」が、一番怖かった。
* * *
ある日の放課後、ほのかは意図的に三人と別行動を取った。
「先に行っといて」と言って、教室に残った。
三人が出て行った後、五分待って、一人で廊下に出た。
校舎の西棟を通って、第2音楽室に向かった。
部活の準備があるという口実は本当だった。
西棟の踊り場を通った。
大きな姿見の前に、一人で立った。
鏡を見た。
自分の姿が映っている。制服。オーボエのケース。
体を動かしてみる。
左に一歩。
右に一歩。
腕を上げる。
首を傾ける。
鏡の中の自分が、同じ動きを返してくる。
同時に。当然のように。
何もおかしくない。
でも——この鏡の前に立つと、空気が変わる。
夕莉が言っていた「深さ」が、確かにある気がする。
(これが、夕奈ちゃんの動きが先に映る鏡)
ほのかは思いながら、鏡を見続けた。
夕奈がいないから、異常は起きない。
でも、この鏡が「何か」を持っていることは、ここに立てば分かる気がした。
なんとなくだが、普通の鏡とは、質が違う、気がする。
東京の古い鏡と似ているが、あれよりずっと鮮明に、その「違い」を感じさせる。
ほのかは、一分ほどそこに立っていてから、踊り場を離れた。
* * *
音楽室での練習が終わったのは、夕方だった。
帰り道、ほのかは一人で家路を歩いていた。
三人はすでに帰っているはずだった。
一人で歩く鏡淵は、やはり整っていた。
でも今日は、ほのかはその整いに逆らうことをやめた。
逆らっても戻される。
それは分かった。
ならば、逆らわずに歩きながら、観察する。
この街が何をしているのか。どうやって「揃え」ているのか。
歩きながら、観察した。
信号のタイミング。
街路樹の間隔。
すれ違う人の速度。
建物の配置。
光の当たり方。
全部が、計算されている。
でも、その計算の「目的」が、まだ見えなかった。
何のために、揃えているのか。
朔也が言っていた「ズレを排除することが合理的」という論理は、
手段の説明であって、目的ではない。
いったい、何を得るために、揃えているのか。
* * *
瀬戸家に帰ってくると、夕奈が玄関で待っていた。
「遅かったね」
「部活で、練習しててん」
「一人で帰ってきたんだ」
「そうや」
夕奈が、少しだけ不思議そうな顔をした。
「一人で帰っても、大丈夫?」
「大丈夫やって」
「迷子にならなかった?」
「鏡淵で迷子になる方が難しいわ」
夕奈が、少し笑った。
「そうかも」
その「そうかも」が、ほのかには少しだけ引っかかった。
夕奈は、この街の整いを「便利」として受け取っている。
迷子にならない、
道に困らない、
流れに乗れる——それが、夕奈にとっては安心の理由になっている。
でも、ほのかにとっては、それが恐怖の理由だった。
「夕奈ちゃん」
「うん」
「この街、出口ないって知ってる?」
夕奈が、少しだけ首を傾けた。
「出口って」
「街の外に出られへんの。試してみたけど、同じ場所に戻ってくる」
夕奈は、その言葉を聞いて、少しだけ考えた。
「……そうなの?」
「そうやった」
「でも、別に出る必要もないし」
その答えが、ほのかには怖かった。
出る必要もない。
閉じていることを、問題として認識していない。
むしろ、閉じているからこそ安全だと思っているかもしれない。
「ほのかちゃんは、出たいの?」
「うん」
「なんで?」
「……閉じてるのが、嫌やから」
夕奈は、少しだけ静かになった。
「わたしは、嫌じゃない」
その言葉が、静かに落ちた。
ほのかは、返す言葉を持たなかった。
玄関の扉が、まだ開いていた。
外の空気が、少しだけ入ってきていた。
夕奈は、その外の空気を気にしていないようだった。
するともう話は終わりとばかりに黙ったまま踵を返し、
晴斗の部屋の方向へ廊下を歩き始めた。
ほのかは、開いた扉からしばらく視線を外さなかった。
それから、そっと閉めた。
外へ出ようとした試みは、出口の不存在として回収される。
ほのかは「閉じている街」を認識するが、夕奈はそれを問題と感じない。
ズレを許さない世界と、それに適応していく人間たちの差異だけが、
静かに浮かび上がる。




