第35話 東京を出る朝
東京を離れる朝。
それは、新しい場所へ向かう始まりであると同時に、「今までの日常」が終わる瞬間でもあります。
空っぽになった部屋。
最後の朝食。
見慣れた住宅街。
何気なく交わしていた言葉たち。
人は大きな別れの瞬間ほど、案外いつも通りに振る舞ってしまうのかもしれません。
この話では、「依存」と「隣にいること」の違いを、晴斗が少しずつ考え始めています。
答えはまだ出ません。
けれど、問い続けようとすること自体が、変化の始まりなのだと思います。
揃っていない四人が、それでも同じ車に乗って進んでいく。
これは、終わりではなく、「春へ向かう途中」の物語です。
引っ越しの朝は、五時に目が覚めた。
アラームより早かった。外はまだ暗くて、窓の向こうに東京の夜明け前の空が広がっていた。濃い紺色の空に、薄く光が滲み始めている。その境界が、じわじわと明るくなっていく。
晴斗はしばらく、その色を見ていた。
起き上がる気になれなかった。
天井を見て、
窓を見て、
空っぽになった部屋の中を見た。
段ボールの山は昨日のうちに業者が持っていって、
今は本当に何もない部屋になっていた。
生まれて初めて、自分の部屋が「自分の部屋じゃない場所」に見えた。
(今日で終わりか)
その言葉が、静かに浮かんだ。
終わり、という言葉が正しいのかどうかは分からない。
続きは向こうで始まる。
でも、ここでの「いつも」は、確かに今日で終わる。
財布の中に入れた、夕莉のメモを思い出した。
夕奈が使わなくなった言葉のリスト。
向こうで、
その言葉が一つでも戻ってきたら報告してほしいと言った、
夕莉の声を思い出した。
ほのかの、角の向こうに消えていく背中を思い出した。
振り返って、手を上げて、それで別れた。
届かなかったものが、その一瞬に全部込められていた気がした。
恵子が深夜のキッチンで言いかけた言葉を思い出した。
あなたが、あの子の世界のすべてになってしまう前に——。
続きは、聞けなかった。
でも今朝は、その続きが何だったか、少しだけ分かる気がした。
あなたが、あの子の世界のすべてになってしまう前に——
あの子が、自分の世界を持てるように。
そういうことだったんじゃないかと、思った。
* * *
六時になって、家の中が動き始めた。
恵子がキッチンで朝食を作る音がした。
宗一が書斎から出てくる足音がした。
夕莉が洗面所に向かう音がした。
夕奈の部屋は、静かだった。
晴斗は廊下に出て、
夕奈の部屋の前で少しだけ立ち止まった。
中から物音はしない。まだ眠っているのかもしれない。
ノックしようとして、止まった。
今朝の夕奈を、どう迎えればいいか分からなかった。
いつも通りにすれば、夕奈は安心する。
でも、いつも通りでいることが、向こうでも続いていく。
それでいいのかという問いが、また浮かんだ。
答えが出ないまま、ノックした。
「夕奈、起きてるか」
少しだけ間があって、扉が開いた。
夕奈が立っていた。
すでに起きていたらしく、制服ではなく私服に着替えていた。
髪は、自分でゴムで結んでいた。リボンはしていない。
「おはよう、お兄ちゃん」
「おはよう。もう準備できてたのか」
「うん」
夕奈は晴斗を見て、少しだけ微笑んだ。
でも、袖を掴んでこなかった。
その「掴んでこない」が、今朝の晴斗には少しだけ不思議だった。
「髪、結ばなくていいのか」
「今日はいい」
「そうか」
二人で、階段を下りた。
廊下を歩きながら、夕奈が言った。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なに」
「向こうって、どんなとこかな」
晴斗は少しだけ考えた。
「整ったきれいな街らしい」
「整った?」
「何もかもが、ちゃんとしてる感じの」
「……晴斗お兄ちゃんと一緒に行けるんだから、どこでもいいけど」
その言葉は、いつも通りだった。
でも、言い方が少しだけ違った。
いつもより、軽かった。
依存というより、ただそう思っているという感じの、軽さがあった。
気のせいかもしれない。
でも晴斗は、その軽さを、心のどこかに留めておいた。
* * *
朝食は、さながら立食パーティのように。
恵子がおにぎりを作ってくれていて、
テーブルも椅子もないから、
みんなで台所に集まって立ちながら食べた。
それが最後の東京での食事だった。
特別なことは何もなかった。
でも、そのなさが、かえってよかった気がした。
宗一が「忘れ物はないか」と確認した。
恵子が「鍵は返したましたか」と確認した。
夕莉が「クラリネットのケースはどこ」と聞いた。
夕奈が「お腹いっぱい」と言った。
全部、いつも通りの言葉だった。
でも今日だけは、いつも通りが、少し違って聞こえた。
* * *
車に乗り込んだのは、八時過ぎだった。
レンタカーの大きなバンに、四人と残りの荷物が乗り込んだ。
宗一が運転席、恵子が助手席。
後部座席に、晴斗、夕奈、夕莉の三人が並んだ。
夕奈が真ん中だった。
自然にそうなった。誰も決めていないのに、夕奈が真ん中に座った。
シートベルトを締めながら、夕奈が窓の外を見た。
瀬戸家の外観が、窓枠に収まっている。
二階の窓、玄関の扉、庭の金木犀。
もう誰も住まない家が、朝の光の中に立っている。
「出発するよ」
宗一がエンジンをかけた。
車が動き出した。
晴斗は窓の外を見た。
慣れ親しんだわが家が遠ざかっていく。
そして角を曲がると、見えなくなった。
さらに住宅街を抜けていく。
いつも通学で通った道が、車のスピードで流れていく。
駄菓子屋。
水路の橋。
小学校への道。
桜の木——花びらはもう散っていて、緑の葉が出始めていた。
春が、本当の意味で始まっていた。
夕奈が、晴斗の袖を掴んだ。
いつものように。当然のように。
でも今日は、その感触が少しだけ違った。
しがみつくのではなく、繋いでいる感じがした。
依存ではなく、ただ隣にいるという感じの、軽い接触。
(気のせいかもしれない)
そう思いながら、晴斗は夕奈の指先を見た。
白くなるほど力を込めていない。ただ、そこにある。
(向こうで、変われるだろうか)
答えは出ない。出ない問いだと、もう分かっている。
でも、問い続けることをやめないでいようと、晴斗は思った。
車は高速道路に入った。
東京の街並みが、遠ざかっていく。
ビルが、橋が、川が、流れていく。
夕莉が、窓の外を静かに見ていた。
何を見ているのか、
何を考えているのか、
その横顔からは分からなかった。
でも、観測していることだけは分かった。
今日も、ずっと、妹は観測している。
恵子が前を向いたまま、静かに言った。
「みんな、準備はいい?」
誰も答えなかった。
でも、車は進んでいった。
東京が、遠くなっていく。
夕奈の指が、袖の布の上で、ほんのわずかに動いた。
握るのではなく、確かめるように。
そこにいるかどうかを、確かめるように。
「……いるよ」
晴斗は、声に出さずに思った。
声に出せばよかったかもしれない。
でも、出さなかった。
届いたかどうかは、分からない。
でも、思った。
それだけは、確かだった。
東京が、窓の外で小さくなっていく。
桜の季節が終わって、新しい季節が始まろうとしていた。
揃っているわけじゃない四人が、同じ方向へ向かっていく。
それぞれの春を抱えたまま、それぞれの速度で。
鏡淵町へ。
この回は、大きな事件が起きる場面ではありません。
けれど、作品全体の「温度」が最も出ている回の一つだと思っています。
夕奈はまだ晴斗の袖を掴む。
でも、その掴み方が少しだけ変わっている。
しがみつくような依存から、「隣にいることを確かめる触れ方」へ、ほんのわずかに変化している。
それは劇的な成長ではありません。
むしろ、本人たちですら気づかないほど小さな変化です。
けれど人間関係は、多分そうやってしか変わらない。
そして晴斗もまた、「守る」だけではなく、「どうすれば相手が自分の世界を持てるのか」を考え始めています。
東京を離れる車の中で始まったのは、新生活ではなく、「関係の再構築」なのかもしれません。




