第36話 整いすぎた街
鏡淵町に到着した瀬戸家を迎えたのは、あまりにも「整いすぎた」街でした。
美しく、静かで、均質。
けれどその完璧さは、どこか人の気配を薄く感じさせます。
新しい家。
新しい生活。
そして、新しく出会う人間たち。
本来なら「始まり」の回であるはずなのに、この章には微かな違和感が流れ続けています。
夕莉の一歩。
朔也の自然すぎる振る舞い。
夕奈を知っているような口ぶり。
それらはまだ、説明できるほど大きな異常ではありません。
けれど、人は本当に危険なものを前にした時、最初は「違和感」としてしか認識できないのだと思います。
これは、新生活の始まりであり、同時に「観測」が始まる回です。
四月の最初の朝、鏡淵町は晴れていた。
でも、東京の晴れとは違った。
光の質が違う。
東京の春の光は、少しだけ雑然としていた。
ビルに反射して、路地に差し込んで、あちこちで角度が変わる。
その不規則さが、生きている街の証拠だった。
鏡淵の光は、均質だった。
どこを見ても同じ明るさで、
影の濃さも、
光の当たり方も、
計算されたように一定だった。
美しいと言えば美しい。
でも、晴斗は車から降りた瞬間に、
その「美しさ」の中に何かが足りないことを感じた。
雑さが、ない。
(整いすぎている)
新しい家の前に立ちながら、晴斗は思った。
建物は白くて、清潔で、 窓の配置まで計算されたように対称だった。
隣の家も、その隣の家も、似たような設計をしている。
街路樹の木々は、同じ間隔で植えられていて、葉の茂り方まで揃っている。
東京には、もっとがたがたした部分があった。
古い家と新しいマンションが並んでいて、
電線が複雑に絡まっていて、
看板の字体がばらばらで。
その不統一さが、長い時間の積み重なりを感じさせた。
鏡淵には、その「積み重なり」がなかった。
最初から、こういう街として設計されたような——そういう印象があった。
「広いね」
夕奈が、隣で言った。
新しい家を見上げながら、目を細めている。
その表情は、驚いているというより、確認しているような顔だった。
「そうだな」
「東京の家より広い?」
「広いと思う」
「じゃあ、お兄ちゃんの部屋も広くなる?」
「多分」
「……じゃあ、今までよりずっと一緒にいられるね」
その一言を、晴斗は流した。
流しながら、流してしまったことに気づいた。でも、今日引っ越してきた初日に、それを指摘する言葉が出てこなかった。
* * *
荷物を運び込んでいると、声がした。
「手伝いましょうか」
振り返ると、見知らぬ男が立っていた。
二十代の後半だろうか。背が高くて、細身で、清潔感のある顔をしていた。笑顔が自然で、押しつけがましくない。好印象を与えることに慣れているような、そういう立ち方をしていた。
「神代朔也といいます。宗一さんには、いつもお世話になってます」
宗一が、すぐに反応した。
「ああ、朔也くん。来てくれたのか」
「引っ越しと聞いたので。何か手伝えることがあればと思って」
二人の様子を見ると、旧知の関係であることが分かった。宗一が弟子と接するような、そういう親しさがあった。
「晴斗、こちらは神代朔也くん。私の研究室の弟子だ」
「はじめまして、瀬戸晴斗です」
「晴斗くんか。はじめまして、神代朔也です。宗一さんから聞いてたよ、頼りになる息子さんだって」
朔也が、晴斗に手を差し出した。握手をすると、温かくて、力加減が自然だった。
「夕奈ちゃんと夕莉ちゃんも、はじめまして」
双子に向けて、朔也が笑う。夕奈はすぐに笑顔を返した。
夕莉は——
一歩だけ、後ろに下がった。
笑顔は作った。礼儀は崩さなかった。
でも、その一歩だけが、晴斗の目に留まった。
(夕莉が......警戒している? )
ほんのわずかな動作だった。気づかない人間の方が多いだろう。
でも、晴斗は見ていた。夕莉がこういう動作をするのは、珍しかった。
朔也は夕莉の動作に気づかない様子で、段ボールを一箱持ち上げた。
「さあ、運びましょう。どこに入れますか?」
その動作が、自然すぎた。
初めて来た家なのに、どこに何があるかを確認してから動く迷いがなかった。場に馴染むことに、慣れている人間の動き方だった。
* * *
昼過ぎには、大まかな荷物の搬入が終わった。
恵子がお茶を出して、みんなでリビングに座った。段ボールに囲まれながらの、不思議な昼食だった。
朔也は話が上手かった。
鏡淵の街のことをいろいろ教えてくれた。
どこに何があるか、学校はどの方向か、おいしい店はどこか。
その話が、押しつけがましくなく、でも必要な情報を過不足なく伝えてくれる。
夕奈が、朔也の話に笑顔で応えていた。
初対面の大人にこれだけ自然に話せるのは、珍しかった。晴斗がいるから安心しているのか、あるいは朔也の話し方が上手いのか。
宗一が、朔也と研究の話を始めた。
難しい言葉が混じって、晴斗には全部は分からなかった。
でも、二人の間にある信頼関係だけは分かった。
宗一が、こんなに自然に誰かと話すのを見たのは、久しぶりかもしれなかった。
夕莉は、朔也から一番遠い席に座っていた。
話には参加していた。
笑顔も見せた。
でも、距離だけは、ずっと一定に保っていた。
(夕莉は、何かを感じているのか)
晴斗はそれが気になったが、聞ける機会がなかった。
* * *
夕方、朔也が帰るとき、玄関で宗一と少し話していた。
晴斗はたまたま廊下を通りかかって、その声を耳にした。
「子どもたちは、問題なさそうですか」
朔也の声だった。
「まあ、まだ初日だからな」
宗一の声。
「夕奈ちゃんは、元気そうで良かった」
「……ああ」
宗一の返事が、少しだけ短かった。
「何かあれば、連絡してください。できることは何でもします」
「ありがとう、朔也くん」
廊下の隅で、晴斗は立ち止まっていた。
その会話の、どこかに引っかかりがあった。
夕奈ちゃんは、元気そうで良かった——という言い方が。
まるで、夕奈の状態を、最初から知っていたような言い方だった。
(気のせいか)
玄関の扉が閉まる音がした。
晴斗は廊下を歩き出した。
新しい家の廊下は、東京より少しだけ広かった。足音が、きれいに響いた。
整いすぎているこの街で、最初の夜が始まろうとしていた。
この回で意識したのは、「不穏を大声で出さないこと」でした。
鏡淵町は、ホラー的に露骨な異常空間ではありません。
むしろ逆で、あまりにも整いすぎている。
その均質さが、じわじわと違和感になるように描いています。
そして朔也。
彼は現時点では、ほとんど非の打ち所がありません。
礼儀正しく、気遣いができて、宗一からの信頼も厚い。
だからこそ、夕莉の「一歩下がる」という反応が重要になります。
人間は、言葉より先に身体が反応することがある。
晴斗はまだ、その意味を理解していません。
でも夕莉は、この街の空気の中にある何かを、無意識に感知し始めています。
「整っていること」は、本当に安心なのか。
その問いが、ここから少しずつ形になっていきます。




