第34話 届かないまま
引っ越し前日。
もう空っぽになりかけた家に、ひとりの少女がやって来ます。
「言わないまま終わるはずだった言葉」を抱えて。
この話には、大きな事件はありません。
ただ、長い時間を一緒に過ごした相手だからこそ言えなかったこと。
分かっているから踏み込めなかった距離。
それでも、最後の日だからこそ伝えたかった想いがあります。
誰かを好きになることは、奪うことではなく、相手の幸せを願ってしまうことなのかもしれません。
東京での最後の夜。
これは、間に合わなかった告白と、それでも確かに残った優しさの話です。
荷造りも大詰めを迎えた、引っ越し前日の午後。
予期せぬチャイムが鳴り、玄関を開けると、
そこには当然のような顔をしたほのかが立っていた。
遠慮も断りもなく、
ただ「そこにいる」ことを選ぶ強引なまでの真っ直ぐさは、
晴斗の知る彼女そのものだった。
「来たよ」
「見れば分かる」
「邪魔やったら帰るけど」
「邪魔じゃないさ」
晴斗はそれだけ言って、開けたドアをそのままに背を向けた。
ほのかもまた、促されるのを待つまでもなく、
慣れた足取りで上がり込んでくる
瀬戸家は、もうほとんど空っぽだった。
段ボールの山だけが残っていて、その間を縫うように歩く。
生活の気配が薄くなった家の中は、音の響き方まで変わっていた。
足音が、少し大きく聞こえる。
声が、少し遠くに届く。
夕奈と夕莉は自分の部屋にいた。
宗一は最後の打ち合わせで出かけていた。
恵子はキッチンで、引っ越し後の最初の夜に食べるものを準備していた。
晴斗とほのかは、二人でリビングに入った。
何もない部屋だった。
床に直接座る。
窓から、曇った午後の光が入ってくる。
二人とも、しばらく黙っていた。
黙っていても、その間の時間は決して苦じゃなかった。
それが、長い付き合いというものだと思った。
言葉を埋めなくても、伝わるし、同じ空間にいられる。
その「いられる」が、今日は少しだけ、重みを持っていた。
「ほのか」
「なに」
「今日、来た理由は」
「……理由って言われると困るな」
ほのかが膝を抱えながら、窓の外を見た。
「ただ来たかっただけ」
「それが理由だろ」
「そうやな」
また、沈黙。
ほのかが、少しだけ息を吐いた。
「うちな、晴くんに言いたいことがずっとあって」
「うん」
「でも、ずっと言えへんくて」
「うん」
「今日も、言えるかどうか分からへんけど」
晴斗は何も言わずに、待った。
ほのかが膝の上に顎を乗せて、晴斗の方を向いた。
その目が、いつもより少しだけ、裸に近かった。
「晴くんのこと、好きやねん」
静かな声だった。
部屋の中に、その言葉だけが残った。
晴斗は、すぐには答えられなかった。
答えるべき言葉を探した。
でも言葉が、うまく来なかった。
「……知ってた?」
ほのかが、少しだけ笑って聞く。
「……なんとなく」
「そか」
ほのかは視線を窓に戻した。
「言うつもり、なかってん。ずっと」
「なんで今日、言ったんだよ」
「向こうに行ったら、もっと言えへん気がして」
その言葉の意味を、晴斗は考えた。
向こうに行けば、夕奈がより強くそばにいる。
その状況の中で、ほのかがこの言葉を言える場所は、さらに狭くなる。
だから、東京にいる最後の日に、言った。
「ありがとう」
晴斗が言えたのは、それだけだった。
ほのかは少しだけ笑った。
「お礼言われると思わんかったわ」
「他に何て言えばいい」
「好きって言い返してくれたら一番やったけど」
「……ほのか」
「分かってる」
ほのかが先に言った。
「晴くんには、夕奈ちゃんがいる。うちのことは、そういうふうには見てへん。全部、分かってる」
分かってる、という言葉が、三回続いた。
その繰り返しの中に、
ほのかがどれだけの時間をかけてそこに辿り着いたかが、
滲んでいた。
「それでも言いたかってん」
「うん」
「言ったら、楽になると思ってたけど」
ほのかが、少しだけ笑う。
「あんまり変わらへんな」
「そうか」
「でも、言えてよかった」
晴斗は、ほのかの横顔を見ていた。
笑っていた。
本物の笑顔だった。
泣きそうな笑顔ではなく、少しだけ肩の力が抜けたような、そういう笑顔。
「ほのか」
「なに」
「向こうに行っても、ほのかはほのかだから」
言いかけて、止まった。
何を言おうとしていたのか、自分でも分からなくなった。
変わらないでいてほしいということか。
変わらずそばにいてほしいということか。
この関係を大切にしたいということか。
全部正しくて、全部違う気がした。
「晴くんらしい」
ほのかが、笑って言う。
「途中で止まるの、晴くんらしい」
「悪かった」
「ええよ。続きは向こうで聞く」
「向こうで?」
「約束したやろ。言い切れへんかったことは、向こうで言うって」
そうだった。昨日の会話で、そう言っていた。
「分かった」
「ちゃんと覚えといてな」
「覚えてる」
ほのかは、膝を伸ばして立ち上がった。
コートの裾を整えて、窓の外を一度だけ見た。
「そろそろ帰る」
「もう?」
「うん。言いたいこと言ったし」
それだけのことだった。
来て、
言って、
帰る。
その潔さが、ほのからしかった。
玄関までほのかを送る。
ほのかは靴を履きながら、少しだけ振り返った。
「晴くん」
「なに」
「夕奈ちゃんのこと」
「うん」
「あの子のことを、ちゃんと好きでいてやって」
晴斗は、その言葉の意味を、少しだけ考えた。
好きでいてやって。
依存されているから、面倒を見てやるのではなく。
義務だから、そばにいるのでもなく。
ちゃんと、好きで、いてやって。
向き合って。
「……うん」
「それだけでええ」
ほのかは頷いて、扉を開けた。
外の空気が、冷たく入ってきた。
曇り空の下、東京の住宅街が広がっている。
明日にはここを離れる街が、今日はまだそこにあった。
「またな、晴くん」
「またな」
ほのかが歩き出した。
コートの背中が、道を進んでいく。
曲がり角まで来て——一度だけ振り返った。
何かを言おうとして。
やめた。
代わりに、小さく手を上げた。
それだけで、また前を向いて歩いていった。
その後ろ姿が、
角の向こうに消えるまで、
晴斗は玄関に立っていた。
扉を閉める。
静寂が戻る。
言えなかったことが、また残った。
晴斗が言えなかったこと、
ほのかが言わなかったこと。
角の向こうに消えていった、
あの振り返りの一瞬に、何が込められていたか。
お互いが届かないまま、東京での最後の夜が始まっていた。
ほのかは、この場で「勝とう」としていません。
だからこそ、この告白は静かで、痛い。
晴斗に夕奈がいることも、晴斗が自分を選ばないことも、全部理解したうえで、それでも「言いたかった」。
その潔さと不器用さが、この場面の核でした。
そして晴斗もまた、誠実であろうとするほど、言葉を途中で失ってしまう。
何かを大切に思うほど、簡単には言い切れなくなることがあります。
たぶん二人とも、この日のことを忘れません。
返事にならなかった言葉も、振り返ってやめた最後の一瞬も。
届かなかった想いは、消えるわけではなく、静かに誰かの人生に残り続けるのだと思います。




