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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第3章:均された街への助走

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34/53

第33話 それぞれの春

東京編、出発直前の章です。


今回は大きな事件は起きません。

その代わり、「終わっていく空気」を丁寧に書いた回でした。


家具が消えた部屋。

小さくなった鏡。

袖を掴まなくなった夕奈。

花びらが積もる通学路。


人は、環境が変わる直前になると、急に“今まで当たり前だったもの”を認識し始めます。

失う直前になって、ようやく輪郭が見える。


晴斗にとっての東京は、特別な場所ではありません。

でも、「普通」があった場所でした。


そして今回は、ほのかと夕莉が、それぞれ別の形で“同行者”になる章でもあります。

 引っ越しまで、あと三日だった。


 瀬戸家の中は、もうほとんど段ボールの山だった。

 家具の大半は先に運ばれて、がらんとした部屋に声が響く。

 生活に最低限必要なものだけが残されていて、

 その「最低限」の少なさが、

 これまでどれだけの物に囲まれていたかを教えてくれた。


 晴斗は朝、いつも通り洗面所に行った。

 でも洗面台の鏡が、すでに外されていた。

 運送業者が昨日、壁付きの棚ごと梱包していったのを思い出す。

 代わりに、恵子が小さな手鏡を洗面台の端に置いていた。


 その手鏡を見て、晴斗は少しだけ止まった。

 鏡が小さくなると、映る範囲が狭くなる。

 自分の顔しか映らない。後ろの景色が見えない。

 なぜか、その「後ろが見えない」という事実が、

 今朝に限って少しだけ引っかかった。


 ヘアオイルを掌に出す。擦り合わせる。体温で温める。

 来るはずの気配が、来なかった。

 五分待った。十分待った。

 夕奈は来なかった。


 晴斗は一人で支度を済ませて、廊下に出た。

 夕奈の部屋の前を通ると、中から物音がしていた。

 引っ越しの支度でもしているのかもしれない。


(来なかったな)


 昨日も来なかった。一昨日も。

 引っ越しが近づくにつれて、

 夕奈が朝の洗面所に来なくなっていた。

 髪も、ゴムで雑に束ねるだけになっていた。

 リボンは、どこかの引っ越しの段ボールの中に入っているのかもしれない。

 変化と言えば変化だった。

 でも、それが良い方向の変化なのかどうか、晴斗には判断できなかった。


     * * *


 朝食は、四人で食べた。


 テーブルも椅子もすでに運ばれていて、

 代わりにレジャーシートを床に敷いて、

 その上に座って食べた。


 恵子が「ピクニックみたい」と笑った。

 宗一は新聞を読もうとして、

 新聞がもう梱包されていることに気づいて、

 少しだけ困った顔をした。

 

 その光景が、どこかおかしくて、晴斗は小さく笑った。

 夕奈は、黙って食べていた。

 

 いつもなら晴斗の隣に来て袖を掴むのに、

 今日は少しだけ距離を置いて座っていた。

 食事中も、晴斗に話しかけることが少なかった。


 その静けさが、不思議だった。

 心配なのか、それとも何かを考えているのか。

 あるいは——引っ越しという変化を前にして、

 自分なりに何かを整理しようとしているのか。


 夕莉は、いつも通りだった。

 淡々と食べて、淡々と片付けを手伝った。

 その「いつも通り」が、今日は少しだけ頼もしく感じた。


     * * *


 昼過ぎ、晴斗は一人で近所を歩いた。

 特に目的はなかった。ただ、歩いて記憶に残したかったかもしれない。


 住み慣れた道を歩きながら、一つ一つを目に焼き付けるような気持ちになった。

 角のコンビニ。

 水路の上にかかった小さな橋。

 駄菓子屋の、少し色褪せた看板。

 小学校の通学路に並んだ桜の木——

 今は満開を過ぎて、花びらが散り始めていた。

 ピンク色の花びらが、アスファルトの上に積もっている。

 風が吹くたびに、また新しい花びらが舞ってくる。


 晴斗はその中に立って、しばらく空を見上げた。


(普通だったな、東京)


 その言葉が、頭の中で浮かんだ。

 普通。

 特別じゃない。

 でも、確かに「普通」があった。

 朝起きて、

 学校に行って、

 帰ってきて、

 ほのかがいて、

 夕飯を食べて、眠る。


 そういう繰り返しの中に、ちゃんと「いつも」があった。

 鏡淵に行けば、その「いつも」が変わる。

 新しい「いつも」が始まる。


 それは分かっている。

 でも——今ここにある「いつも」が終わることへの、

 言葉にならない惜しさが、

 花びらを見ながら少しだけ込み上げてきた。


(東京にいれば、夕奈はこれ以上変わらないのかもしれない)


 その考えが、初めてはっきりとした形で浮かんだ。

 今まで何度か浮かびかけては、飲み込んでいた考え。

 でも今日は、最後まで言葉になった。

 

 鏡淵という場所が、何かを加速させるかもしれない。

 恵子もそれを感じていた。

 夕莉も知っている。

 晴斗自身も、薄々感じていた。


 でも、止められない。

 もう動き始めているから。


 花びらが一枚、晴斗の肩に落ちた。

 払わずに、そのままにした。


     * * *


 夕方、ほのかが家に訪ねて来た。

 今日は手ぶらだった。

 オーボエのケースもなく、鞄もなく、ただコートを着て来た。


「散歩してたら、来てしもた」

「嘘だろ」

「半分本当」


 二人で、段ボールだらけのリビングに座った。

 床に直接座って、壁に背を預けた。


「明後日やな」

「明後日」

「早いな」

「早い」


 短い言葉のやり取りが続く。

 でも、それで十分だった。

 言葉が少なくても、空気が持つ情報量が多い。

 ほのかが、天井を見上げながら言った。


「うち、引っ越した後も、晴くんの家に行くと思う」

「来い来い」

「夕奈ちゃんがいても?」

「いても来い」

「……ほんまに?」

「ほんまに」

 ほのかが、天井を見たまま小さく笑った。

「さっき、夕奈ちゃんと話した」

「え」

「廊下で会ったから」

 晴斗は少しだけ驚いた。ほのかと夕奈が二人で話すことは、あまりなかった。

「何を話したんだ」

「たいしたことちゃう。引っ越しのこと、向こうの学校のこと」

「どうだった」

「……普通に話せた」


 ほのかが、少しだけ間を置く。

「でも、やっぱり、ちゃんとは噛み合わへん。夕奈ちゃんが何かを言うとき、全部どこかで晴くんに繋がってるから。話の中心に、いつも晴くんがいる」

「そうか」

「それが変わるかどうかは、向こう行ってからやな」


 晴斗は頷いた。

 変わるかどうか、自分でも分からない。

 でも、変えようとは思っている。

 あの日の夜、

 自分が加害者かもしれないと気づいてから、

 ずっとそう思っている。


「なあ、ほのか」

「なに」

「夕奈が変われると思うか」

 ほのかは、少しだけ考えた。

「変われるかどうかより」

 静かに言う。

「変わろうとする場所にいられるかどうか、やと思う」

「場所?」

「環境。空気。周りの人間。そういう全部が、変わることを許してくれるかどうか」


 晴斗は、その言葉を聞きながら、

 鏡淵という街のことを思った。


 神代重工の学園都市。

 閉じた円環。

 宗一の研究が続く場所。

 その街が、夕奈が変わることを、許してくれるだろうか。


「分からないな」

「うちも分からへん」

「でも、やるしかない」

「そうやな」


 二人でまた、しばらく黙っていた。

 窓の外に、夕方の光が差し込んでいた。

 物がなくなった部屋の中に、

 その光が広く広がって、床を染めていた。


 きれいだと思った。

 物がないからこそ、光が届く場所が広い。

 それが少しだけ、何かの比喩のように感じられた。

 でも、何の比喩なのかは、言葉にならなかった。


     * * *


 その夜、夕莉が晴斗の部屋に来た。

 今度もノックをして、返事を待って、入ってきた。

 手に、小さな紙を持っていた。


「これ」


 差し出す。

 受け取って開くと、小さな文字で何かが書いてあった。


「何、これ」

「お姉ちゃんが最近使わなくなった言葉のリスト」


 晴斗は、その紙を見た。

 退屈。つまらない。眠い。腹が立つ。悲しい。寂しい。行きたい。やりたい。食べたい。読みたい。面白かった。楽しかった。びっくりした——。

 言葉が、並んでいた。


「向こうで」

 夕莉が言う。

「この中の言葉が、一つでも戻ってきたら、教えて」

「……分かった」

「逆に、もっと減っていくようなら、それも教えて」

「うん」

「お兄ちゃん一人じゃ、全部は見えないから」

「そうだな」


 夕莉は頷いて、踵を返した。

 扉に向かいながら、一度だけ振り返る。


「向こうでも、観測は続ける」

「ありがとう」

「お礼は要らない」


 夕莉は扉を閉めた。

 廊下に出ていく足音が、静かに遠ざかっていく。

 晴斗は紙を折って、財布の中に入れた。


 明後日、東京を出る。

 それぞれが、それぞれの春を抱えて、同じ方向へ向かっていく。

 揃っているわけじゃない。でも、同じ方向には向いている。


 それだけが、今夜の晴斗には確かなことだった。

今回のキーワードは、「観測」です。


夕莉は言葉を記録し続ける。

ほのかは外側から変化を見続ける。

晴斗は、自分が加害者にもなり得ると理解したうえで、それでも関わり続けようとしている。


誰も答えを持っていません。

でも、“見ないふりをしない”ことだけは選び始めている。


また、今回の夕奈は少し静かです。

朝の洗面所に来ない。

距離を置いて座る。

袖を掴まない。


一見すると改善にも見える変化ですが、この作品では「距離を取れる=回復」とは限りません。

むしろ、不安や変化の前で内側に沈んでいる可能性もある。


その判別がまだ誰にもできない。

そこが今の怖さです。


そして最後の、「揃っているわけじゃない。でも、同じ方向には向いている」。


これは東京編全体を通した、四人の関係性そのものだったのかもしれません。

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