第32話 恵子の不安
東京編終盤、今回は恵子の章です。
この作品ではこれまで、恵子は「温かい母親」として描かれてきました。
実際、それは本物です。
彼女の優しさは演技ではない。
でも同時に、彼女は誰より早く“夕奈の危うさ”に気づいていた人でもあります。
気づいていた。
途中から、依存が深まっていることも分かっていた。
それでも止められなかった。
今回描きたかったのは、「正しいと信じた選択」が、いつの間にか別のものへ変質していく怖さです。
深夜のキッチン。
誰も見ていない時間。
笑っていない恵子が、初めて本音に近いものを零します。
その夜、晴斗は夜中に目が覚めた。
喉が渇いていた。
時計を見ると、午前二時過ぎだった。
起き上がって、廊下に出る。
家の中は静かで、全員が眠っているはずだった。
階段を下りながら、ふと気づいた。
一階の、キッチンの灯りがついていた。
薄いオレンジ色の光が、廊下の床に漏れている。
換気扇の音がしない。
テレビの音もしない。
ただ、灯りだけがついている。
晴斗は静かに近づいて、キッチンの入口から中を見た。
恵子が、テーブルに座っていた。
何かを食べているわけでも、
本を読んでいるわけでもない。
両手をテーブルの上に置いて、
ただそこに座っている。
視線は、テーブルの一点に落ちていた。
晴斗は声をかけようとして、躊躇った。
恵子の横顔が、いつもと違った。
昼間の恵子は、いつも何かをしている。
料理をしている、
片付けをしている、
誰かに声をかけている。
あるいは笑っている。
その笑顔が本物であることは、晴斗にも分かっていた。
恵子の温かさは、作り物じゃない。
でも今、誰も見ていない深夜のキッチンで、
恵子は笑っていなかった。
疲れているというより——何かを抱えている顔だった。
声をかけるべきか、
引き返すべきか、
晴斗が迷っていると、恵子が顔を上げた。
目が合った。
一瞬だけ、恵子の表情が揺れた。
それからすぐに、いつもの柔らかい顔に戻る。
「晴斗くん、眠れなかった?」
「喉が渇いて」
「そっか。冷蔵庫に麦茶あるから」
晴斗は冷蔵庫から麦茶をコップに注ぎ、
恵子の向かいに座った。
座ってから、
なぜ座ったのか、
自分でも少しだけ分からなかった。
でも、引き返す気にもなれなかった。
「恵子さんは」
「うん」
「眠れないんですか」
恵子は少しだけ笑った。
「そうね、少し」
「引っ越しのことで?」
「まあ、そうかな」
曖昧な答えだった。
そうかな、
という言い方が、
違うとも言えないという意味に聞こえた。
晴斗は麦茶を一口飲んで、テーブルの上に置いた。
「向こうに行くこと、不安ですか」
恵子は答える前に、少しだけ間を置いた。
「不安、かあ」
呟くように言う。
「不安じゃないとは言えないわね」
「どんなことが」
恵子は、また少し考えた。
その考える時間が、いつもより長かった。
昼間の恵子なら、こういう問いにもすぐに答える。
でも今夜の恵子は、言葉を選んでいた。
「鏡淵って」
恵子が、静かに言い始める。
「特別な場所なの。宗一さんから少し聞いてたけど、実際に住むのは初めてだから」
「特別って、どういう意味で」
「……あの街は、いろんなものが、少し違う速度で動いているの」
抽象的な言い方だった。
でも、晴斗は少しだけ分かる気がした。
神代重工の研究拠点。
学園都市。
閉じた円環。
宗一が書類に書いていたYU-NAという文字列。
「夕奈のことが心配なんですか」
直接聞いた。
恵子が、晴斗を見た。
その目が、一瞬だけ、何かを探すような色を持った。
晴斗がどこまで気づいているのかを、測るような目。
「……賢いのね、晴斗くんは」
「そうじゃなくて、ずっと見てたから」
「見てた」
「夕奈が、変わっていくのを」
恵子は、また少し黙った。
窓の外で、風が鳴った。
春の終わりの、細い風の音だった。
「晴斗くんに、一つだけ正直に言っていい?」
「はい」
「私ね、鏡淵に行くことが」
恵子が、テーブルの上の手を、少しだけ動かした。
「夕奈にとって、良いことなのかどうか、分からないの」
その言葉が、深夜のキッチンに静かに落ちた。
晴斗は、その言葉の重さを、ゆっくりと受け取った。
恵子は、知っているのだ。
夕奈がこのまま鏡淵に行けば、
何かが起きるかもしれないということを。
何かが加速するかもしれないということを。
「でも、止められないんですか」
「止められない」
即答だった。
「宗一さんの仕事がそこにあるし、あなたたちの学校も決まってしまったし。もう動き始めてしまってるから」
「それだけじゃないですよね」
晴斗は、言いながら自分でも驚いた。
こんなに直接的に言えるとは思っていなかった。
恵子が、少しだけ目を細めた。
「……そうね」
認めた。
「それだけじゃない」
「なんで止めなかったんですか。最初から、もっと前に」
責めているわけじゃなかった。
ただ、知りたかった。
恵子は少しだけ目を伏せて、また顔を上げた。
「夕奈がね、あなたに会ってから、少し変わったの」
「変わった?」
「笑うようになったの。ちゃんと、笑うようになった」
その言い方が、晴斗には少しだけ意外だった。
「前は笑わなかったんですか」
「笑ってたわよ。でも、どこか——作った笑顔だった。誰かに向けた笑顔じゃなくて、自分を守るための笑顔」
恵子が、遠くを見るような目をした。
「あなたに会ってから、その笑顔が変わった。あなたを見るときだけ、本物の顔になった」
晴斗は、何も言えなかった。
「だから、止められなかった」
恵子が続ける。
「あなたと一緒にいることが、夕奈を生かしてると思ったから。そのためなら、多少無理があっても、一緒にいた方がいいと思ったから」
「でも、そのせいで」
「そのせいで、依存が深まった」
恵子が、先に言った。
「分かってる。分かってたの、途中から」
その「途中から」という言葉が、重かった。
途中から分かっていた。
でも、止めなかった。
止められなかった。
「晴斗くん」
「はい」
「あの子を」
恵子が、晴斗を真っ直ぐに見た。
「あなたが、あの子の世界のすべてになってしまう前に——」
言いかけて、止まった。
窓の外で、また風が鳴った。
恵子は、言葉を飲み込んだ。
代わりに、小さく笑った。
「……ごめんなさい、夜中に変な話をして」
「変じゃないです」
「眠れそう?」
「少しは」
「じゃあ、おやすみ」
話が、そこで終わった。
恵子が立ち上がって、
キッチンの灯りを消す準備をする。
晴斗も立ち上がって、麦茶のコップを流しに置いた。
キッチンを出る前に、晴斗は一度だけ振り返った。
「恵子さん」
「うん」
「言いかけたこと、続きはないんですか」
恵子は少しだけ黙った。
「……あなたが、あの子の世界のすべてになってしまう前に」
もう一度、繰り返した。
「どうすればいいかは、私には分からない。でも、そうなってしまったとき、あなただけが頼りになる」
その言葉が、
何を意味するのか、
晴斗にはまだ全部は分からなかった。
でも、大切なことを言われた気がした。
「おやすみなさい、晴斗くん」
「おやすみなさい」
廊下に出る。
階段を上りながら、
晴斗は恵子の言葉を頭の中で繰り返した。
あなたが、あの子の世界のすべてになってしまう前に。
なる前に、何をすればいいのか。
その続きを、恵子は言わなかった。
あるいは、言えなかった。
答えを持っていながら言わなかったのか、
答えを持っていないから言えなかったのか——晴斗には分からなかった。
自分の部屋に戻って、ベッドに横になる。
天井を見上げながら、
深夜のキッチンの恵子の横顔を思い出した。
誰も見ていないときの顔。
何かを抱えている顔。
その顔が、
どこかほのかが言いかけて止まる瞬間に似ていると、
晴斗は思った。
届かないまま、抱えていくもの。
恵子にも、
ほのかにも、
夕莉にも——それぞれの「届かないもの」がある。
自分にも。
窓から、春の夜の空気が少しだけ入ってきた。
冷たくて、静かな空気だった。
晴斗は目を閉じた。
明日になれば、
また引っ越しの準備が続く。
東京での最後の日々が、一日ずつ、確実に減っていく。
眠りに落ちる直前、晴斗は思った。
(恵子さんは、怖いんだ)
鏡淵に行くことが。
何かが変わることが。
いや——何かが、変わらないことが。
その恐怖の正体を、晴斗はまだ言葉にできなかった。
この章で重要なのは、恵子が“悪意のある人間ではない”という点です。
彼女は夕奈を利用しているわけでも、依存を楽しんでいるわけでもない。
むしろ逆で、ずっと救いたかった。
だからこそ厄介なんです。
「晴斗といると、夕奈は本当に笑うようになった」
その事実がある以上、恵子は二人を引き離せなかった。
依存が進んでいると気づいても、“生きられる状態”を優先してしまった。
この作品では何度も、「支えること」と「閉じ込めること」の境界が揺れます。
今回の恵子は、その境界の上で立ち尽くしている人です。
そして最後の、
「あなたが、あの子の世界のすべてになってしまう前に」
という台詞。
これは警告であり、懇願であり、そして——恵子自身が答えを持っていない告白でもあります。




