第31話 引っ越し前日
東京編、最後の日曜日です。
部屋から物が消えていくたび、「ここ」が別の場所になっていく感覚を書きたかった章でした。
引っ越しは、家具を運ぶ作業ではなく、記憶の輪郭を書き換える作業でもあります。
晴斗は、本や棚に触れながら、自分の記憶が“誰かと一緒にいた時間”でできていることに気づいていく。
そして今回は、久しぶりに晴斗とほのかが、ちゃんと向き合って話します。
夕奈のこと。
鏡淵のこと。
変えたいと思っていること。
それでも言い切れないこと。
終わりに向かう空気の中で、それでも続けようとする会話を書いた章です。
三月の最後の日曜日、瀬戸家は段ボールだらけだった。
朝から業者が来て、大きな家具を先に運び出していった。
テレビ、
本棚、
ダイニングテーブル。
それらが消えた部屋は、思っていたより広かった。
広くて、空虚で、どこか他人の家のような顔をしていた。
晴斗は自分の部屋の片付けをしながら、その変化を感じていた。
物が減るたびに、部屋が変わっていく。
同じ壁、
同じ床、
同じ窓なのに、
中にあるものが変わるだけで、全く別の場所のように見える。
場所とは、そこにある物と記憶でできているんだと、初めて実感した。
棚の上の本を箱に入れていく。
教科書、
漫画、
もらったままほとんど読んでいない本。
一冊ずつ手に取るたびに、
いつ買ったか、
どこで読んだか、
断片的な記憶が浮かんでは消えた。
この本を読んでいたとき、夕奈がまだ来ていなかった。
この本を読んでいたとき、ほのかと口喧嘩した翌日だった。
この本を読んでいたとき——。
記憶の多くが、誰かとセットになっていることに気づいた。
一人でいた時間の記憶が、思ったより少ない。
* * *
昼過ぎに、ほのかが尋ねて来た。
手伝いに、とは言ったが、
段ボールを運ぶわけでも、梱包を手伝うわけでもなかった。
ただ、そこにいた。
自分の居場所を確かめるように、
あるいは誰かの視界に滑り込むように、
ただ静かに佇んでいるだけだった。
晴斗の部屋の、まだ片付いていない床の上に座って、
ほのかは部屋を見回した。
「なんか、変な感じやな」
「変って」
「物が減ってるだけなのに、もうここじゃないみたいな」
「俺も同じこと思った」
ほのかは膝を抱えて、窓の外を見た。
曇り空だった。春なのに、光が薄くて、少し寒い日だった。
「ここに初めて来たの、いつやったっけ」
「小学校の頃だろ、最初から」
「そうやな。うちんちより長くおった気がする」
「ほんとに来すぎだろ、お前は」
「うちがおらんかったら、この家どないなってたか」
「普通に回ってた」
「嘘つき」
笑った。いつも通りの笑い方だった。
でも、いつも通りだからこそ、少しだけ重かった。
晴斗は段ボールに本を入れる手を止めて、壁に背を預けた。
ほのかと向かい合うように、床に座る。
「ほのか」
「なに」
「向こうに行っても、こういう感じで尋ねて来るか」
「来るんやなくて、私が行くねん」
ほのかは言い直すように答えた。
「夕奈がいても?」
「誰がおっても関係ない。私が行きたいから、行くだけや」
断言した。
その言い方に、ほのからしい強さがあった。
でも晴斗は、その「行くだけや」という言葉の裏に、
何かが混じっているのを感じた。
行きたい、
という気持ちと、
行けるだろうか、
という期待と不安の両方あるような。
「なあ晴くん」
「なに」
「正直に聞いていい?」
「どうぞ」
ほのかは、膝の上に顎を乗せて、晴斗を見た。
「向こうに行って、夕奈ちゃんがもっとひどくなったら、どうするつもり」
直接的な問いだった。でも、ほのからしかった。
晴斗は少しだけ考えた。
「ひどくなるって、どういう意味で」
「今よりもっと、晴くんなしでは何もできなくなったら」
「……分からない」
「分からないって、どう分からないの」
「どうすればいいか、分からない。突き放すべきなのかもしれない。でも、突き放したときに夕奈がどうなるか、想像したら——できない気がする」
ほのかは、その答えを聞いて、少しだけ黙った。
「晴くんは優しいな」
「そうじゃないと思う」
「優しいよ。でも」
ほのかが、また窓の外を見る。
「優しさが、あの子を助けてるのか、余計に沈めてるのか——うちには分からへん」
晴斗も、窓の外を見た。
曇り空の下、
隣の家の庭に植えられた木が、
風に揺れていた。
葉っぱがまだ少ない、春の初めの木だった。
「俺も分からない」
正直に言った。
「分かってないけど、どうにかしたいとは思ってる」
「どうにかって」
「向こうに行って、もう少し変えられないか、試してみたい」
「何を変えるの」
「夕奈が——自分で決められるように。少しずつでも」
ほのかは、その言葉を聞いて、晴斗を見た。
「それ、本気で言ってる?」
「本気だよ」
「本気なら」
ほのかが、少しだけ身を乗り出す。
「うちも手伝う」
晴斗は、その言葉に少しだけ驚いた。
「手伝うって」
「外側から見てる方が、分かることもあるやろ。うちは気づいたら言う。晴くんが気づかへんことでも、うちが気づいたら言う。それでええ?」
「……ああ」
そう言って晴斗は頷いた。
ほのかも満足したように頷いて、また膝を抱えた。
「じゃあ、向こうでもうちがうるさくしても、文句言わんといてな」
「もともとうるさいだろ」
「それ以上にうるさくするってこと」
「勘弁してくれ」
また笑った。今度は少しだけ、気分が軽かった。
部屋の中に、段ボールが積み重なっている。
空になった棚が、壁に寄りかかっている。
物がなくなった床が、思ったより広い。
晴斗は、その空間を見ながら思った。
東京にいる間に、
変えられなかったことがたくさんある。
でも、向こうに行っても——続けられることもある。
この会話みたいに。
ほのかがいれば、こういう話ができる。
それだけは、変わらない気がした。
「なあ、ほのか」
「なに」
「東京にいる間に、言い切れなかったこととか、あるか」
ほのかが、少しだけ黙った。
長い沈黙ではなかった。
でも、その短い間に、何かを考えているのが分かった。
「……あるよ」
「言わなくていいのか」
「今は、ええわ」
窓の外を見たまま、ほのかが言う。
「向こうで言う。ちゃんと言える気がするから、向こうで」
「分かった」
「約束やで」
「約束する」
ほのかは、それ以上何も言わなかった。
久しぶりに晴斗とちゃんと話せてよかったと思う。
二人で、しばらく並んで窓の外を見ていた。
曇り空の向こうに、春の光が薄く透けていた。
段ボールに囲まれた部屋が、少しだけ、あたたかく感じた。
この章は、東京編の「呼吸の回復」に近い回かもしれません。
ここ数話はずっと、言葉が遮られたり、届かなかったり、沈黙に沈んでいく描写が多かった。
でも今回は、晴斗とほのかが久しぶりに“会話を成立させている”。
もちろん問題は何も解決していません。
夕奈の依存も、晴斗の迷いも、そのままです。
それでも、「一緒に考える」と言える相手がいること。
外側から見て、止めてくれる存在がいること。
それは確かに、小さな救いでもある。
そして最後の、「向こうで言う」というほのかの台詞。
これは希望でもあり、少しだけ危うい予告でもあります。
鏡淵編が始まると、関係性はさらに変化していきます。
東京で積み重ねた“曖昧な違和感”が、少しずつ形を持ち始めます。




