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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第3章:均された街への助走

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第30話 夕莉の警告(未遂)

卒業式の章です。

ただ、この物語で描きたかったのは「別れの涙」ではありません。


本当に描きたかったのは、誰かが壊れていく過程を、“分かってしまった人間”たちの沈黙でした。


夕莉は観測していました。

姉・夕奈の言葉が減っていくことを。

世界が狭くなり、感情や欲求が消え、晴斗だけを中心に再編されていくことを。


でも、観測できることと、止められることは違う。

言葉にした瞬間、それは「曖昧な違和感」ではなく、現実になってしまう。


東京編終盤。

今回は、静かに見続けていた夕莉が、初めて“言葉にする側”へ回る章です。

 三月の下旬、卒業式が終わった週だった。


 小学校の卒業式は、思っていたより静かだった。

 体育館に並んだ椅子、

 証書を受け取る手順、

 歌の練習を重ねた別れの歌。

 全部が決まった通りに進んで、決まった通りに終わった。


 泣いている子もいたが、晴斗はあまり実感が持てなかった。

 終わったという感覚より、

 まだ何かが続いているような、

 宙ぶらりんの感覚の方が強かった。

 

 式の後、校庭で写真を撮った。

 クラスの集合写真、

 仲良しグループの写真、

 先生との写真。


 ほのかが晴斗の隣に来て、いつも通りに笑った。

 夕奈は晴斗のもう片方の隣に来て、袖を掴んだ。

 夕莉は少しだけ離れた場所に立って、カメラを見ていた。

 写真の中の四人は、笑っていた。

 ちゃんと笑っているように見えた。


     * * *


 その日の夕方、夕莉が晴斗の部屋に来た。

 ノックをして、返事を待って、扉を開けた。

 夕奈と違う入り方だった。その几帳面さが、夕莉らしかった。


「少しいい?」

「いいよ」


 晴斗はベッドに座って、夕莉が椅子を引くのを見ていた。

 夕莉は座ってから、少しだけ間を置いた。

 何かを言う前に、言葉を整えているような間だった。


「卒業式、どうだった」

「普通だった。ほのかちゃんが泣くかと思ったけど、泣かなかったね」

「そう」


 また、会話に間が空いた。

 晴斗は、夕莉がここに来た理由が、

 卒業式の感想を聞くためではないことを分かっていた。

 でも、先を促さなかった。夕莉が自分のペースで話せるように、待った。


「晴斗お兄ちゃん」

 夕莉が、呼んだ。

 お兄ちゃん、という言葉を夕莉が使うのは珍しかった。

 同い年だから、いつもは「晴斗お兄ちゃん」ではなく「晴斗くん」と呼ぶ。

 その呼び方の変化が、少しだけ引っかかった。


「なに?」

「お姉ちゃんのこと」

 来た、と思った。

「聞いていい?」

「うん」


 夕莉は、手を膝の上に置いて、晴斗を見た。

 その目が、いつもより少しだけ、力を持っていた。


「お姉ちゃんが、変わってきてると思う?」


 問いかけ。

 でも、夕莉の場合、問いかけは確認だ。

 すでに答えを持っていて、

 晴斗の認識と照合しているだけだと、晴斗には分かった。


「……変わってきてるとは、思う」

「どのくらい」

「どのくらいって」

「深刻だと思う?」


 直接的な問いだった。夕莉らしい聞き方だった。

 晴斗は少しだけ考えた。

 深刻か。

 深刻という言葉を使えば、それは確定する。

 でも、使わなければ——誤魔化しになる。


「……深刻だと思う」

 正直に答えた。

「うん」

 夕莉は頷いた。予想通りの答えだったというように。

「お姉ちゃんの話す言葉が、前より減ってきてるの」

「言葉が?」

「自分の感情を表す言葉。自分の欲求を表す言葉。全部、少しずつ消えていってる。残ってるのは、お兄ちゃんに向けた言葉だけ」


 夕莉の言い方は、淡々としていた。

 感情を乗せずに、観測した事実を並べるように。

 でも、その淡々とした言い方の奥に、何かが滲んでいた。


「私、ずっと見てた」

「うん」

「東京にいる間に、言おうと思ったことが何度もあった」

「言えなかったのか」

「……うん」


 夕莉が、少しだけ目を伏せた。

 その仕草が、いつもの夕莉と少し違って見えた。

 観測者としての冷静さではなく、

 言えなかったことへの、

 ほんのわずかな後悔のような何かが混じっていた。


「なんで言えなかったの?」

「言葉にすれば、確定するから」

「確定?」

「お姉ちゃんが壊れていってる、ということが」

 夕莉は顔を上げて、また晴斗を見た。

「言葉にする前は、まだ曖昧なまま置いておける。でも、言葉にしたら——それは現実になる。取り消せない現実に」


 晴斗は、その言葉を聞きながら、

 自分が同じことをしてきたことに気づいた。

 見ていた。

 感じていた。

 でも言葉にしなかった。

 言葉にすれば確定するから、曖昧なまま置いておいた。

 夕莉も同じことをしていた。


「夕莉」

「うん」

「今、俺に言おうとしていることがあるんだろ」

 夕莉が、少しだけ黙った。

 そして、頷いた。

「お姉ちゃんが」

 口を開く。

「自分で考えることを、やめようとしている」

 言葉が、静かに部屋に落ちた。

「少しずつ、少しずつ、晴斗お兄ちゃんの中に溶け込もうとしている。自分の輪郭を、手放そうとしている」

 晴斗は、黙って聞いていた。

「このまま鏡淵に行ったら、もっと加速すると思う。新しい環境は、お姉ちゃんをもっと不安にさせる。不安になるたびに、お兄ちゃんにしがみつく。そのたびに、お姉ちゃんの世界が小さくなる」


 夕莉の声は、最後まで平坦だった。

 でも、言い終えた瞬間に、少しだけ息が乱れた。

 ほんのわずかな乱れだったが、晴斗には見えた。

 ずっと、抱えていたのだ。

 観測して、記録して、でも言えないまま、一人で持ち続けていた。


「夕莉」

「うん」

「よく、言えたな」

 夕莉は少しだけ黙った。

「……言わないといけない気がした。鏡淵に行く前に」

「そうか」

「でも」

 夕莉が、また目を伏せる。

「どうすればいいかは、分からない」

「俺も分からない」

「……そう」


 二人は、しばらく黙っていた。

 夕莉の言ったことは、全部正しかった。

 反論できる部分が一つもなかった。

 そして晴斗は、

 それを聞いても——どうすればいいかが、やはり分からなかった。

 

 そのとき。

 廊下から足音がした。

 軽くて、迷いのない足音。

 扉が開いた。


「お兄ちゃん、ここにいた」


 夕奈だった。

 晴斗と夕莉が並んでいるのを見て、少しだけ表情が変わった。

 不思議そうな、でもどこか警戒するような目。


「何してるの、二人で」

「ちょっと話してただけだよ」

「何の話?」

 夕莉が、静かに答えた。

「卒業式の話」

 嘘だった。でも、夕莉の声には動揺がなかった。

「そっか」


 夕奈は、それ以上聞かなかった。

 晴斗の隣に来て、袖を掴む。


「ごはん、もうすぐできるって。恵子さんが呼んでた」

「分かった」


 夕莉が立ち上がる。

 椅子を元の位置に戻す。

 その動作が、丁寧で、静かだった。


 扉に向かう夕莉の背中を、晴斗は見ていた。

 言いたかったことが、まだあったはずだ。

 でも、夕奈が来て、遮られた。

 夕莉は振り返らなかった。

 

 でも、扉を出る直前に、一瞬だけ足を止めた。

 何かを言いかけた。

 でも、言わずにそのまま廊下に出ていった。


 夕奈が、晴斗の袖をきゅ、と引っ張る。

「行こ?」

「ああ」


 立ち上がりながら、

 晴斗は夕莉が扉の前で立ち止まった一瞬を、

 頭の中で振り返る。 

 言いかけて、止めた。

 あの一瞬に、夕莉が言おうとしていた言葉は何だったのか。

 聞けなかった。


 廊下に出ると、夕莉はもう階段の下にいた。

 振り返ることなく、一段ずつ、静かに下りていく。


 その背中が、少しだけ小さく見えた。

この章は、夕莉というキャラクターの本質が最も出ている回かもしれません。


彼女は感情が薄いわけではない。

むしろ逆です。

感情があるからこそ、観測者でいようとしている。


言葉にすれば確定してしまう。

だから見ているだけでいた。

でも、鏡淵へ行く前に、それでも言わなければならないと思った。


夕莉にとって今回の会話は、“告発”ではなく“共有”です。

「自分だけが気づいていたわけじゃなかった」と確認するための。


そして皮肉なことに、その最も重要な会話は、夕奈が部屋に入ってきた瞬間に中断されます。

この作品では何度も、「あと少しで届いた言葉」が遮られる。

今回も、その積み重ねの一つです。

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