第29話 ほのかとの距離
東京編、終盤です。
この章では、大きな事件は起きません。けれど、関係性の重心が少しずつズレていく音だけが、静かに積み重なっていきます。
ほのかは、自分が「外側」に押し出され始めていることを感じています。
誰かが悪いわけではない。
でも、夕奈と晴斗の間にある閉じた引力は、周囲の距離感を少しずつ変えていく。
言葉にできない違和感。
失われる前だからこそ気づく、“どうでもいい時間”の大切さ。
鏡淵へ向かう前の最後の夕暮れを、今回はほのかの視点から描きました。
三月も半ばを過ぎると、放課後の時間が変わった。
変わったのは、量だった。
晴斗とほのかが二人でいる時間が、
少しずつ、
気づかないくらいゆっくりと、
削られていった。
劇的な変化ではない。
誰かが意図したわけでもない。
ただ、気づけばそうなっていた。
以前は、放課後に瀬戸家に寄るのが当たり前だった。
晴斗の家のキッチンで、二人で夕飯の準備をする。
どちらが洗って、どちらが切るか、毎回なんとなく決まる。
調味料の場所も、使う順番も、体が覚えている。
その時間が、ほのかにとっての「整える時間」だった。
でも今は、瀬戸家に行けば夕奈がいる。
夕奈がいれば、晴斗は夕奈の隣にいる。
夕奈が袖を掴んでいれば、晴斗はそこから動かない。
二人でキッチンに立つ時間は、
いつの間にか三人になっていた。
三人になると、何かが変わる。
会話の流れが変わる。
空気の密度が変わる。
晴斗がほのかに向ける注意の配分が、変わる。
ほのかはそれを、責めていなかった。
責める理由がない。
夕奈が悪いわけじゃない。
晴斗が悪いわけじゃない。
ただ、そうなっている。
それだけのことだと、頭では分かっていた。
でも、体は正直だった。
* * *
その日、ほのかは音楽室から出るのが遅くなった。
個人練習が長引いたせいでも、
昨日新しく作ったリードの調子が悪かったせいでもない。
ただ、帰る気になれなかった。
窓の外に、夕方の光が傾いている。
オレンジと紫が混ざった誰そ彼時の空が、
校舎の窓枠に切り取られている。
その紫鳶の色が、少しだけ東京らしかった。
鏡淵に行ったら、
こういう色の空を見られるんだろうかと、
ぼんやりと思った。
オーボエのケースを閉じて、椅子に座ったまま動かない。
廊下から足音がして、止まった。
「ほのか」
晴斗だった。
「まだいたのか」
「……うん」
「夕奈が、ほのかどこ行ったって聞いてた」
その一言が、ほのかの胸の中に、小さく刺さった。
晴斗が探しに来たのではなく、
夕奈が晴斗に聞いて、晴斗が来た。
その構造が、刺さった。
「個人練習しててん」
「そうか」
晴斗が音楽室に入ってくる。ほのかの向かいの椅子を引いて、座る。
二人だけの音楽室。久しぶりの感じがした。
実際には数日前にも同じ場所にいたはずなのに、なぜか久しぶりに感じる。
「どうした」
晴斗が聞く。
「別に」
「嘘だろ」
真っ直ぐに言うので、ほのかは少しだけ苦笑した。
「……なんか、練習に身が入らへんかっただけ」
「何か気になることでも?」
「晴くんには関係ない」
少しだけ、きつい言い方になった。
自分でも気づいたが、訂正しなかった。
晴斗は怒らなかった。
少しだけ黙ってから、窓の外を見た。
「引っ越しのこと、考えてた?」
「……まあ」
「ほのかも同じタイミングで来るんだろ、向こうに」
「そうやけど」
ほのかは言いかけて、止まった。
同じタイミングで行く。
それは本当だ。
学校も同じ。
クラスもおそらく同じ。
地理的な距離は変わらない。
でも。
(うちが言いたいのは、そういうことちゃうねん)
どう言えばいい。
向こうに行っても、
晴くんとの距離は変わらないかもしれない。
でも、今より夕奈がそばにいる時間が増える。
今より夕奈が不安定になる。
そのとき晴くんは、もっと夕奈の方に引き寄せられる。
反対にうちは、どんどん外側に行く。
それを言葉にすれば、どう聞こえるか。
自分が寂しいと言っているように聞こえる。
それは、正しくない。
寂しいだけじゃない。
もっと複雑な、でも言語化できない何かだ。
「……ほのか」
晴斗が、また呼んだ。
「なに」
「最近、夕奈と話してる?」
予想外の問いだった。
「……たまに」
「どんな感じ」
「どんなって」
ほのかは少しだけ考えた。
どんな感じか。夕奈と話すとき、何を感じているか。
「……なんか、うまく噛み合わへん感じ」
正直に答えた。
「うちが何か言うと、夕奈ちゃんは晴くんの話に持っていく。うちが別の話をしようとしても、また晴くんの話になる。悪気はないと思うけど」
「……そうか」
晴斗が、少しだけ沈んだ声で言う。
「気づいてたのか」
「晴くんも?」
「うん」
二人の間に、沈黙が来た。
音楽室の空気が、静かに揺れている。
誰かが廊下を歩く音が、遠くから聞こえてくる。
「晴くん」
ほのかは、意を決して言った。
「向こうに行ったら、うちらが二人で話せる時間、なくなると思う」
「なくなりはしないだろ」
「でも、減るわ今より」
晴斗は答えなかった。
答えられないということが、答えだった。
「それが、うちはちょっと」
言葉を選ぶ。
「寂しいとか、そういうんちゃうねん。ただ」
また、言葉が止まる。
ただ、何だ。
ただ——この時間が終わることが、怖い。
二人でキッチンに立って、
どうでもいい話をして、
笑って、
それだけの時間が。
向こうに行けば、その「どうでもいい時間」が、
もう存在しなくなる気がして。
「……なんでもない」
結局、そう言った。
言い切れなかった。
晴斗は少しだけ、ほのかを見た。
何か言おうとして、でも言わなかった。
二人で、窓の外を見た。
夕方の空が、少しずつ暗くなっていく。
オレンジが消えて、紫が濃くなって、やがて藍色になっていく。
その変化を、二人で並んで見ていた。
言葉はなかった。
でも、同じものを見ていた。
それが、今のほのかには——十分だった。
十分だったけれど、それだけだった。
やがて晴斗が立ち上がった。
「帰ろうか」
「うん」
ほのかもケースを持って立ち上がる。
廊下に出ると、夕奈が待っていた。晴斗を見た瞬間、表情が変わる。袖を掴む。
「遅かった」
「ごめん、ほのかと話してた」
「そっか」
夕奈は、ほのかを一度だけ見た。
笑顔だった。きれいな笑顔だった。
「ほのかちゃんも、一緒に帰ろ」
その言葉に、悪意はなかった。
ただ、その「一緒に」の中に、
ほのかの居場所が、どこにあるのかが——見えなかった。
三人で廊下を歩き出す。
ほのかは、少しだけ後ろを歩いた。
二人の背中を見ながら、
さっき言いかけて飲み込んだ言葉を、
もう一度頭の中で辿った。
届かないまま、また一日が終わっていく。
廊下の窓から、東京の夕暮れが見えた。
もうすぐ、この景色も変わる。
ほのかは、その色をしっかりと目に焼き付けた。
この章で描きたかったのは、「三人でいること」と「二人でいられなくなること」は、同時に成立する、という感覚でした。
夕奈は悪意なくほのかを「一緒」に入れる。
でも、その“輪”の中心は最初から決まっている。
ほのかは拒絶されたわけではないのに、少しずつ居場所が変わっていく。
そして晴斗も、それに気づいている。
気づいているのに、止められない。
東京編ではずっと、「壊れる瞬間」ではなく「壊れる前の沈黙」を描いてきました。
次章もまだ東京にいます。
けれど空気はもう、少しずつ鏡淵へ向かい始めています。




