第28話 恵子の「毒」
優しさは、いつも正しい形をしているとは限りません。
支えること。
そばにいること。
安心させること。
それらは本来、とても温かな行為です。
でも、人が誰か一人だけに世界を預け始めたとき、その優しさは別の意味を帯び始める。
今回の話では、恵子の視点に近い場所から、「知っていて受け入れている大人」を描きました。
彼女は夕奈の性質を理解している。
晴斗への依存も見えている。
それでも、「離しなさい」ではなく、「いてあげてね」と言う。
そこには母親としての愛情もある。
同時に、諦めにも近い静けさがあります。
正しい答えを持たないまま、人は誰かを守ろうとする。
今回は、そんな話です。
三月の中頃、恵子が珍しく早く帰ってきた日があった。
晴斗が学校から戻ると、
キッチンからいい匂いがしていた。
シチューだった。
恵子が鍋をかき混ぜながら、振り返って「おかえり」と言う。
その笑顔が、
いつも通りやわらかくて、
いつも通り温かくて——いつも通り、少しだけ遠かった。
「今日は早かったんですね」
「ええ、打ち合わせが早く終わって」
恵子は鍋に視線を戻しながら言う。
「夕奈は?」
「自分の部屋に」
「夕莉は?」
「図書館」
短いやり取り。
でも、恵子はそれを聞いて、少しだけ表情を変えた。
「じゃあ、晴斗くんと二人ね」
何でもない言い方だった。
でも、その「二人」の確認が、どこか意図的に聞こえた。
晴斗は鞄を置いて、キッチンの入口に立った。
「手伝いましょうか」
「いいのよ、座ってて」
恵子は、しばらく黙って鍋をかき混ぜていた。
その背中が、何かを考えているような、少しだけ重い背中だった。
「晴斗くん」
「はい」
「引っ越しのこと、不安?」
唐突な問いだった。
「……まあ、少しは」
「そうよね」
恵子は頷いて、火を少し弱める。
「でも、あなたならきっと大丈夫」
振り返る。その目が、まっすぐに晴斗を見ていた。
「夕奈がいるから」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
夕奈がいるから大丈夫、というのは、どういう意味か。
夕奈が支えになるということか。
それとも——夕奈を支える役割があるから、
晴斗は大丈夫だということか。
「晴斗くんがいると、あの子は安心するから」
恵子が続ける。
「どんな環境でも、あなたがそばにいれば、夕奈は大丈夫だと思う」
その言葉は、やさしかった。
本物のやさしさだった。
恵子が心からそう思っていることは、伝わった。
でも。
(それは、夕奈が大丈夫だということであって)
晴斗は思う。
夕奈が自分で立てるようになるということとは、違う。
* * *
シチューが完成して、
恵子が盛り付けをしている間に、
夕奈が下りてきた。
晴斗の姿を見た瞬間、
夕奈の顔がぱっと明るくなった。
その変化が、恵子の目に入った。
恵子は、それを見て、微笑んだ。
「ほら、やっぱり」
誰にともなく、恵子が呟いた。
「お兄ちゃんを見るあの顔」
夕奈が晴斗の隣に来て、当然のように袖を掴む。
「おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま」
その短いやり取りを、恵子はやわらかい目で見ていた。
それから、皿を運びながら言う。
「晴斗くんがいないと、この子はダメになっちゃうものね」
笑顔だった。冗談めかした口調だった。
でも、晴斗はその言葉を、笑い飛ばせなかった。
(今、何と言った)
頭の中で繰り返す。
晴斗くんがいないと、この子はダメになっちゃう。
それは、心配の言葉だろうか。
それとも——そういう状態を、
当然のこととして受け入れている言葉だろうか。
夕奈は何も言わなかった。
袖を掴んだまま、シチューの匂いを嗅いで「おいしそう」と言った。
その顔には、恵子の言葉が刺さった様子がなかった。
それが、晴斗には一番怖かった。
刺さらない。
なぜなら、その言葉が——夕奈自身の認識と一致しているからだ。
晴斗がいないとダメになる、という前提を、
夕奈はすでに自分の中に取り込んでいる。
だから痛くない。
だから驚かない。
(恵子さんは、知っているんだ)
晴斗は思う。
夕奈がこうなっていることを、知っている。
知っていて、
あの言葉を言った。
それはどういう意図なのか。
* * *
食後、晴斗が食器を洗っていると、
恵子がふきんを持って隣に来た。
二人で並んで、
洗って、
拭く。
その作業の中で、恵子が静かに話し始めた。
「あの子ね」
夕奈のことだと、すぐに分かった。
「小さい頃から、そうだったの」
「そうだったって」
「誰かを決めると、その人だけになるの」
恵子は皿を拭きながら、どこか遠くを見るような目をしていた。
「前の学校でも、一人だけ仲良しの子がいて。その子が転校したとき、夕奈は一ヶ月くらい、ほとんど喋らなくなった」
晴斗は手を止めずに聞いていた。
「そのとき、夕莉は?」
「夕莉は……見ていたわ。いつも通り、静かに」
恵子が小さく笑う。
「あの二人は、似ているようで全然違うの。夕莉は世界を外から見る子。夕奈は世界の中に一点だけ選んで、そこに全部を注ぐ子」
晴斗は、その言葉を聞きながら、夕奈が袖を掴む感触を思い出していた。
「だから、晴斗くんに出会ったとき」
恵子が続ける。
「良かったと思った。本当に」
「……でも」
晴斗は、言いかけた。
でも、それは良いことなんですか。
夕奈が全部を注ぐ先が、俺一人になっていくことが。
言いかけて、止まった。
恵子が、晴斗を見ていた。
その目に、何かがあった。
分かっている、という光。
分かっていて、それでも、という光。
「晴斗くんがいないと、この子はダメになっちゃう」
さっきと同じ言葉を、もう一度言った。
今度は笑顔ではなかった。
「だから、一緒にいてあげてね」
それだけだった。
それ以上は言わなかった。
皿を拭き終えて、
ふきんをかけて、
恵子はキッチンを出て行った。
晴斗は一人残って、
蛇口の水の音を聞いていた。
(いてあげてね......)
その言葉が、頭の中に残った。
いてあげることと、
依存を断ち切ることは、両立するのか。
一緒にいてあげることで、夕奈は安心する。
でも、いてあげることで、
夕奈は自分で立つことをやめていく。
どちらが、本当の意味で夕奈のためになるのか。
恵子は、その問いの答えを持っているのだろうか。
それとも——答えが出ないまま、
「いてあげて」という言葉だけを残したのだろうか。
水を止める。
静寂が来る。
キッチンの窓の外に、東京の夜が広がっていた。
(守ることと、閉じ込めることは)
その問いが、また浮かんだ。
今夜も、答えまで辿り着けなかった。
今回の核は、恵子の「知っている」です。
これまで周囲の子どもたちは、“異変を感じている側”でした。
でも恵子は違う。
彼女は、夕奈が昔から「一点に全部を注ぐ子」だったことを知っている。
そして今、その対象が晴斗になっていることも理解している。
重要なのは、彼女がそれを異常として完全には否定していないことです。
むしろ、「晴斗がいるなら大丈夫」と考えている。
この感覚は、善意だからこそ厄介です。
壊そうとしているわけではない。
閉じ込めようとしているわけでもない。
ただ、“安心できる状態”を守ろうとしている。
でも、その安心が、夕奈の世界を小さくしている可能性がある。
晴斗は今、「守る」と「閉じ込める」の境界線の上に立ち始めています。




