第3話 西階段の観測者
放課後。
ズレは、音から空間へ広がっていきます。
神代学園という場所は、巨大なメトロノームに似ている。
チャイムの音、上履きの足音、第1音楽室から漏れ聞こえる合唱部の歌声。それらが一定の、抗いようのないリズムで、この学園に「正常な波形」を刻んでいた。
放課後の校舎には、吹奏楽部のパート練習の音が至る所から重なり合い響いてくる。百名を超える部員たちが各所に分散して音を研ぐのは、この学園における日常的な風景だった。
だが、その喧騒の中に、晴斗の居場所はもうなかった。
かつてはクラリネット奏者として、合奏の一端を担っていた。しかしある時期を境に、自分の出す音が周囲とどうしても数ミリ秒だけ食い違う錯覚に囚われ始めた。技術の問題ではない。チューニングの問題でもない。ただ——合わない。その感覚に耐えられなくなって、晴斗は第2音楽室を離れ、古い譜面を整理する裏方の作業に逃げ込んでいた。
(逃げ込んだ、か)
自分でそう思うと、少しだけ苦くなる。
下校時刻のチャイムが鳴り、喧騒がゆっくりと静寂に変わっていく。資料室を片付け、西階段の踊り場まで差し掛かったとき——影が落ちていた。
「遅かったやんか、晴くん」
佐倉ほのかだ。壁に背を預け、オーボエケースを抱きしめるようにして立っていた。
鏡の中に映る彼女の姿が、なぜか実物よりわずかに色が薄く見える。ピントが合っていないような、奇妙な印象。晴斗はそれを気のせいだと判断して、視線を外した。
「まだ残ってたのか」
「リードの調子が悪うてな、さっきまで新しいの作ってん」
ほのかはケースを開けながら、横目で晴斗を見る。
「……資料室、どうや。一人で籠もってて」
「別に。静かでいい」
「そう」
短い返事。それきり、ほのかは黙った。
いつもなら畳み掛けてくるはずの声が来ない。晴斗は少しだけ気になって、ほのかの横顔を見る。
彼女は鏡を見ていた。
鏡の中の二人——自分とほのかを、じっと。
「ほのか?」
「……晴くん」
ほのかが口を開く。いつもより、少しだけ声が低い。
「あんた、最近——」
言いかけて、止まる。
代わりに、小さく息を吐く。
「……なんでもない。忘れて」
そう言ってケースを閉じる手が、わずかに強張っていた。
晴斗はそれ以上聞かなかった。聞けば、何かが確定してしまう気がした。
そのとき。
「お兄ちゃん!」
渡り廊下の向こうから、夕奈が小走りにやってくる。
今日は別の用事があって練習には参加していないはずだ。それでも、下校時刻のこのタイミングを狙い澄ましたかのように——この踊り場に現れた。
夕奈はほのかの存在を視界に入れないまま、当然のように晴斗の腕に絡みついてくる。
「間に合った。ずっと探してたんだよ、お兄ちゃん」
その笑顔は完璧だった。
踊り場の鏡が、三人の姿を映している。
晴斗は、そこで初めて気づく。
鏡の中の景色が——左右逆転していない。
本来、鏡は左右を反転して映すはずだ。けれど今、鏡の中の三人は、現実とまったく同じ向きに立っている。
一秒にも満たない、奇妙な静止。
次の瞬間には、元に戻っていた。
(……疲れてるな、僕)
晴斗はその違和感を飲み込んで、夕奈に引かれるまま歩き出す。
「……じゃあな、ほのか」
背後で、パキリと音がした。
リードが、折れた音だった。
振り返らなかった。
ただ、ほのかが何かを言いかけて——飲み込んだことだけは、分かった。
第3話までお読みいただきありがとうございます。
“ズレ”が、音から空間へ広がり始めました。
次話では、この違和感がさらに踏み込んできます。




