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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
序章:緋色の残響 ―リボンと消失―

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第2話 沈黙する創造主

第2話です。


この家の“普通”は、どこかがほんの少しだけズレています。

 朝の食卓というのは、家族の体温が一番正直に出る場所だと、晴斗はどこかで聞いたことがある。

 だとしたら、瀬戸家の体温は——いつからこんなに低かっただろう。


 味噌汁の湯気だけが、音もなく立ち上り、空気の中にほどけて消えていく。

 父・宗一は新聞を広げたまま、一度もページをめくらない。視線は紙面の一点に固定されたまま動かない。読んでいるのではなく、そこに「いる」ための姿勢として新聞を持っている——そう気づいたのは、いつだったか。


「……父さん」

 呼びかけは、空気の中で一度だけ遅れて届く。


「どうした、晴斗」

「今日も、仕事遅くなるの?」

「ああ。私のことは待たなくていい。夕食は先に済ませておきなさい」

 それだけで終わる。


 晴斗は箸を動かしながら、この食卓に欠けているものを探す。会話はある。挨拶もある。形式は完璧に整っている。

 なのに——何かが、ない。


 東京にいた頃の食卓を、ふと思い出す。もっと雑然としていて、もっとうるさくて、それでいて確かに「誰かがそこにいる」感触があった。あの頃と今の違いが何なのか、晴斗にはまだうまく言葉にできない。


「お兄ちゃん、卵焼き食べる?」

 夕奈の声が、隣から落ちてくる。

 柔らかく、整っている。


 晴斗は「ああ」と短く返す。

 卵焼きは正常な甘さと温度を持ったまま口の中に広がる。

 美味しい。ちゃんと美味しいのに——なぜか今朝は、その「正常さ」が逆に遠い。


 そのとき、宗一の手が書類へと伸びた。

 テーブルの端に置かれたそれに、一行だけ明確な文字があった。


 ―― YU-NA


 晴斗がそれを視界に捉えた瞬間、認識よりも先に宗一の手がそれを覆うのを見た。隠すというより、最初から「見せない」という前提で動いている手だった。


「……何それ」


「お前には関係ないものだ。気にするな」

 強い拒絶感。それ以上踏み込む言葉が出てこない。


 夕奈はその空気の断絶を補うように、晴斗の肩をゆすりながら詰め寄る。

「ねえ、今日帰り一緒に帰ろ? ねぇっ、き・い・て・る?」


 晴斗は父から視線を夕奈に戻し、頷く。


「すまないが、急ぎの用がある。先に出る」

 宗一が席を立つ。椅子が床を引く音。扉が閉まる音。


 それだけで、食卓の空気が変わった。

 重さだけが抜け落ちたように、部屋が急に広くなる。


 夕奈はしばらく味噌汁の表面を見つめてから、ぽつりと言う。

「お父さん、変だよね」

 疑問ではなく、確認だった。すでに答えを持っている人間の言葉。

「でもさ」

 夕奈が顔を上げる。

「どうでもよくない? だって——お兄ちゃんがいれば、それでいいし」


 軽い声だった。

 軽いのに、軽いと流してはいけない気がした。

 晴斗は答えない。答えようとして——言葉が出てこない。


 夕奈はそれを待たず、すぐに笑顔へ戻る。

 その笑顔は完璧だった。


 ただ——今朝の洗面所でも、食卓でも、夕奈はずっと笑っている。


 晴斗はふと思う。

 この子は、いつから「笑っていなければいけない」と思い始めたんだろう。

 その問いも、いつものように途中で止まる。


 結論まで辿り着かせない何かが、今日も遮断する。


読んでいただきありがとうございます。


このあたりから、少しずつ空気が変わっていきます。

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