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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
序章:緋色の残響 ―リボンと消失―

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第1話:朝の儀式 ―緋色のリボン―

少し不穏で、少しだけ優しい話です。

妹の髪を結ぶ、そんな朝の時間から始まります。

 鏡淵町かがみぶちちょうの朝は、いつも沈黙から始まる。


 瀬戸家の洗面所。朝陽が差し込む前の、瓶覗色かめのぞきいろの淡い闇の中で、晴斗(はると)は鏡と向き合っていた。

 映っているのは、自分の顔だ。寝不足の、どこか疲れた顔。


 ――それだけのはずなのに。


 なぜか今朝は、その顔が少しだけ他人に見えた。

 掌にヘアオイルを出し、擦り合わせて、体温で温める。

 その動作を、もう何百回繰り返しだろう。

 数えたことはない。

 数えてしまえば、やめられなくなる理由を直視することになるから。


 ――本当は、気づいている。


 この習慣が、正しくないことに。血は繋がっていない、家族だ。

 それでも、毎朝こうして彼女の髪に触れることを、晴斗は一度も「嫌だ」と思ったことがない。


 それが、一番まずい。

 来るはずの気配を、待っている自分がいる。


「お兄ちゃん、今日も可愛く結んでね?」


 いたずらっぽく笑いながら背後から落ちてきた声に、張り巡らせていた理性の結び目は、あっけなくほどけた。


 振り返るまでもない。瀬戸夕奈は、いつも同じ位置に来る。

 ちょこんと目の前に座る小さな背中。細い肩が、晴斗の膝に触れる。その接触はあまりにも軽いのに——洗面所の空気の密度だけが、異様に重くなる。


 晴斗は一瞬だけ手を止める。


 ――今なら、適当な理由をつけて追い出せるはずだ。


 だが結局、指は吸い寄せられるように動いた。

 夕奈の髪に触れる。柔らかい。絹糸のようで、それでいて微かに熱を帯びている。不自然なほど心地よい温度。梳く。整える。


 (……本当、無駄に髪質がいいな、こいつ)


 内心で毒づきながらも、指先は驚くほど優しく彼女の輪郭をなぞってしまう。

 「兄」という立場を守ろうと背筋を伸ばすたびに、夕奈がわざとらしく首を傾け、うなじを晒してくる。

 その白さに、晴斗の視線は行き場を失って彷徨った。


 そのたびに、晴斗は思う。

 ――俺が甘やかすから、この子はこうなったんじゃないか。


 その思考は、いつも途中で止まる。結論まで辿り着かせない何かが、毎回そこで遮断する。だから晴斗は今日も、その問いを喉の奥に押し込めたまま、緋色のリボンに手を伸ばした。


「お兄ちゃん、手が止まってるよ?」

「……わかってる。動くなよ」


 短く返す声が、わずかに掠れた。逃げるように視線を外し、リボンを手に取る。

 義母・恵子が残した言葉が、ふと蘇る。


 ――結び目は、心の形だよ。


 だとしたら、この結び目は。


 晴斗は思う。綺麗な形じゃない。「兄妹」という枠からはみ出しそうな何かを、無理やり閉じ込めているだけだ。でも同時に——もう一つ、別の何かも、この結び目の内側に押し込まれている気がする。


 うまく言葉にできない。

 ただ、リボンを結ぶたびに、それがきつくなっていく感覚だけがある。


 鏡越しに、視線が絡んだ。夕奈の瞳は、まっすぐに晴斗を捉えている。ただの妹のそれではない。もっと粘度のある、絡みつくような焦点。

 彼女は、晴斗が自分の「可愛さ」に揺らいでいることを、すべて見透かしているようだった。


 (……ずるいだろ、こいつ)


 リボンを回して、蝶の形を作る。その直前——

 鏡の中で、夕奈の髪が一瞬だけ「違う結ばれ方」をしていた気がした。


 現実の指先は蝶を作っているのに、鏡の中のそれは、もっと複雑で、まるで獲物を縛り上げる鎖のような形状を描いていた。

 結び終えたときには、もう元に戻っていた。


 (……気のせいか。疲れすぎか、僕)


 妙に生々しい違和感を指先に残したまま、晴斗は思考を振り切る。


「よし。今日もかわいく結べたよ、夕奈」


 自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。

 夕奈は満足そうにリボンに触れる。その指先が、白くなるほど食い込んでいた。


「ねえ、お兄ちゃん」

 夕奈が、晴斗の袖を掴む。

「今日も、一緒に帰ろうね」

 確認ではなく、宣言だった。


 晴斗は答えない。答えなくても——夕奈はすでに、答えを決めている。


 そのとき。カタン、と窓が鳴る。


「夕奈ちゃん! 髪、またぐちゃぐちゃにしてもらってへん?」

 庭の金木犀の陰から顔を出したのは、幼馴染の佐倉ほのかだった。オーボエのリードケースを片手に、いつも通りの調子でまくし立てる。

「朝ごはんはちゃんと食べたん? 晴くん、顔色わる——」


 ほのかの言葉が、途中で止まる。

 一秒にも満たない、沈黙。

 鏡越しの二人を見た彼女の顔から、笑顔だけが先に消えた。

 すぐに戻る。何事もなかったように。


「……またかいな」

 低くもなく、高くもない。ただ少しだけ、温度の抜けた声で言って——ほのかはすぐにいつもの顔に戻った。

「夕奈ちゃん、可愛う結んでもらいや! 晴くん、ちゃんとしてあげてよ!」

 ドタドタと駆けていく足音。


 だが晴斗は、見てしまっていた。

 ほのかの手元で、リードが白く軋んでいたことを。

 折れる寸前の、細い音を。


 緋色が揺れる。その残像が、鏡の中でわずかに遅れて追いついた。

 鏡の中の夕奈が、一瞬だけ——晴斗の肩越しに「何か」を見た気がした。

 気づかないまま、彼はただ、目の前の愛らしい妹の体温に、絆されていた。


 何が、もうすぐ消えるのかも知らずに。


読んでいただきありがとうございます。

もし違和感が残っていたら、それはきっと気のせいではありません。

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