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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第3章:均された街への助走

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第26話 変わらない朝

 春は、境界が曖昧になる季節だと思う。


 終わりと始まり。

 別れと出会い。

 昨日までの日常と、明日からの日常。


 人はその隙間で、少しだけ不安定になる。


 今回の話では、「変わること」と「変わらないでほしいこと」が同時に進んでいきます。


 東京で積み重ねてきた習慣。

 袖を掴むこと。

 髪を結ぶこと。

 一緒に帰ること。


 それらは小さな日常ですが、繰り返されることで、人を“そこに存在させる形”になっていく。


 そして形になったものは、簡単には剥がれません。


 鏡淵へ向かうまで、あと少し。

 でも本当に変わり始めているのは、場所ではなく、人の内側なのかもしれません。

 四月まで、あと三週間だった。


 晴斗は朝、目が覚めるたびに、その数字を数えていた。

 意識してそうしているわけじゃなかった。

 

 ただ、気づいたら頭の中で残り日数が更新されていた。

 二十一日。

 二十日。

 十九日。

 その数字が減るたびに、何かが近づいてくる感覚があった。


 洗面所の鏡に向かいながら、晴斗はヘアオイルを掌に出した。

 擦り合わせて、体温で温める。

 もう、待つまでもなかった。

 気配は、すでにそこにあった。


「お兄ちゃん、今日も可愛く結んでね」


 夕奈が、いつもの位置に座る。

 細い肩が、膝に触れる。

 その接触の重さが、最初の頃とは違う。

 あの頃は「軽いのに重い」という矛盾した感触だった。

 今は——ただ、重い。

 体重の問題ではなく、

 その存在そのものの重さとして。


 晴斗は指を動かす。

 夕奈の髪に触れる。

 柔らかい。

 絹糸のようで、微かに熱を帯びている。

 この感触を、何百回と確かめてきた。


(あと何回、こうして結ぶんだろう)


 向こうに行っても、この習慣は続くだろう。

 続かない理由がない。

 むしろ、環境が変わるほど、

 夕奈はこういう「いつも」にしがみつくようになる。


 それが分かっていて、止められない。

 緋色のリボンを手に取る。

 リボンを回して、蝶の形を作る。


 鏡の中の夕奈が、晴斗を見ている。

 まっすぐに、粘度のある目で。


 その目の中に、

 不安と、

 安堵と、

 それから何か——言葉にならないものが混じっている。


「ねえ、お兄ちゃん」

「なに」

「向こうに行っても、毎日結んでくれる?」


 問いかけ。

 でも、確認だった。

 晴斗は一瞬だけ手を止めた。


(ここで、違うと言えるか)


 言えなかった。


「結ぶよ」


 そう答えた。

 夕奈が、満足そうに目を細める。

 その表情が、あまりにも安心しきっていて、

 晴斗は小さく息を吐いた。


 向こうに行っても、変わらないと約束した。

 変わらないことが、

 良いことなのかどうか——その問いは、

 また途中で止まった。

 

 リボンの輪が完成する。

 緋色の蝶が、夕奈の髪の上で揺れる。

 

 鏡の中の二人が、そこにいる。


(あと、何回)


 その問いだけが、答えを持たないまま、

 洗面所の空気の中に残った。


     * * *


 学校の帰り道、夕奈はいつも通り袖を掴んでいた。

 四月が近いせいか、街の空気が少しずつ変わり始めていた。

 桜の蕾が膨らんでいる。

 自転車で通り過ぎる学生たちの顔が、

 なんとなく浮き立っている。

 春という季節が、世界全体を少しだけ前向きにしていた。


 でも、夕奈はそれに気づいていないようだった。

 桜の木の下を通り過ぎるとき、

 空を見上げなかった。

 咲きかけた花びらが風に揺れていても、

 視線は晴斗の横顔にあった。


「お腹空いた」

「もうすぐ家だろ」

「うん。でも空いた」

「帰ってから食べろよ」

「お兄ちゃんと一緒に食べたい」


 晴斗は答えずに歩き続けた。

 夕奈が「一緒に」と言うとき、

 それは「あなたと食べたい」ではなく、

 「あなたがいる状況で食べたい」という意味に変わってきていた。

 微妙な差異だが、確実にある差異だった。


 自分の空腹より、晴斗との位置関係の方が、

 彼女の中で先に来ている。


(これが、東京にいる間に変えられなかったことだ)


 晴斗は思う。

 あと三週間で、この街を離れる。


 この帰り道も、

 この路地も、

 この桜の木も——全部置いていく。


 夕奈が「いつも」として覚えてきたものを、

 全部置いていく。


 そのとき夕奈は、

 晴斗にさらにしがみつくだろう。


 それを想像したとき、

 晴斗の胸に来たのは——恐怖だった。


 夕奈への恐怖ではなく、

 自分への恐怖だった。


 そのとき自分は、

 また流してしまうだろうという確信からくる恐怖。


 袖を掴む指の力が、少しだけ強くなった。

 夕奈は何も言わない。

 ただ、そこにいる。


 桜の花びらが一枚、

 風に乗って二人の間を通り抜けた。

 夕奈は、それを見なかった。

 今回描いたのは、「依存が日常として固定される瞬間」です。


 夕奈はもう、晴斗に甘えているのではなく、“晴斗が存在すること”を前提に生き始めています。

 だから「毎日結んでくれる?」はお願いではなく、世界が続くかの確認になっている。


 一方で晴斗も、その異常さを理解しています。

 自分が夕奈をこう変えてしまったことも分かっている。

 それでも拒絶できない。壊してしまうかもしれないから。


 守ることと、依存を深めることの境界が曖昧になっていく。

 その危うさが、東京編の終盤には静かに積み重なっています。

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