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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第2章:あたたかな崩壊

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第25話 鏡の街の招待状

 引っ越しは、場所を変えるだけの行為ではありません。


 人間関係の距離感や、日常の重さまで静かに変えていくものです。


 今回の話では、「東京を離れる」という出来事そのものより、“離れる前の時間”を書きました。


 まだ日常は続いている。

 学校も、帰り道も、会話も、いつも通り存在している。


 でも、その「いつも」が終わることだけは、全員が薄く理解している。


 だから言葉が少しだけ変わる。

 視線が少しだけ長く残る。

 確認するような会話が増えていく。


 終わりは、壊れるようには来ません。

 静かに、空気の形から変わっていきます。

 三月の終わり、桜が咲き始めた頃に、宗一がそれを告げた。


 夕食の席だった。

 いつも通りの食卓で、

 いつも通りの料理が並んでいて、

 いつも通りに会話が少ない夜だった。


 宗一がそういう話をするとき、

 いつも「いつも通り」の瞬間を選ぶ。

 特別感を出さないために。

 あるいは、特別感を出せないから。


「四月から、鏡淵に引っ越すことになった」


 短い一言だった。

 恵子はすでに知っていたらしく、表情が変わらなかった。

 夕莉は箸を止めて、宗一を一度見てから、また手を動かした。

 夕奈は味噌汁の表面を見たまま、動かなかった。


 晴斗は、鏡淵という言葉を頭の中で反芻した。


 神代重工の学園都市。

 宗一の研究拠点がある街。

 以前に一度だけ名前を聞いたことがあった。

 

 でも、自分たちが移り住む場所として考えたことはなかった。


「……学校は」

「神代学園に転入の手続きをする。四月の入学に間に合うように、来週から動く」


 淡々とした説明だった。

 夕奈が、ゆっくりと顔を上げた。


「引っ越し、するの」

「ああ」

「……お兄ちゃんも?」

 宗一ではなく、晴斗に向けた問いだった。

「俺も行くよ」


 晴斗が答えると、夕奈は小さく頷いた。

 安堵しているのか、それとも別の何かを感じているのか、

 その横顔からは読めなかった。

 ただ、確認が取れた瞬間に、夕奈の体から少しだけ力が抜けたような気がした。

 晴斗がいるなら、どこでもいい。

 そう言いたいのだろうと、思った。

 その「どこでもいい」が、今の晴斗には、以前より重く聞こえた。


 その夜、ほのかから連絡が来た。

 今から行っていい? という短いメッセージだった。


 十分後に玄関のチャイムが鳴って、ほのかが立っていた。

 コートを着たまま、鞄を持ったまま。

 学校帰りに一度家に寄って、また出てきたような格好だった。


「来月からのこと、聞いたわ」

 ほのかが言う。

「誰から」

「お父さんから。宗一さんに連絡きたって」


 晴斗は少しだけ驚いた。

 両親同士で話が通っていたことに、

 ではなく——ほのかの顔が、いつもより少しだけ白いことに。


「上がれよ」

「ええわ、ここでいい」

 玄関に立ったまま、ほのかは続ける。

「鏡淵って、どんなとこなん」

「俺も詳しくは知らない」

「でも行くんやろ」

「行くしかないだろ」


 ほのかは少しだけ黙った。

 軒先に、街灯の光が落ちている。

 三月の夜はまだ冷たくて、ほのかの吐く息が白く見えた。


「……ほのか」

「なんや」

「お前、大丈夫か」


 問いかけると、ほのかは少しだけ眉を動かした。

 それから、少し笑った。

 いつもの笑い方より、少しだけ力が足りない笑い方だった。


「うちが大丈夫かどうかを心配するのは、順番がちゃうんちゃう」

「どういう意味だよ」

「……なんでもない」


 首を振って、ほのかはコートのポケットに手を突っ込んだ。

 しばらく、二人とも黙っていた。

 街灯の光の中に、春の虫がいくつか飛んでいた。

 季節が変わろうとしている。


「なあ晴くん」

 ほのかが、また口を開く。

「向こうに行っても、連絡してな」

「するよ」

「ちゃんとやで」

「ちゃんとする」


 ほのかは頷いた。

 それから、一度だけ晴斗の顔を真っ直ぐに見た。

 何か言いたいことがあるのが分かった。言いかけて、止まっているのが分かった。

 でも晴斗は、先を促さなかった。

 促せば、言ってくれるかもしれない。でも言わせることが、今の自分にできることかどうか、判断できなかった。


「……夕奈ちゃんのこと、頼むな」


 結局、ほのかが言ったのはそれだった。

 晴斗は少しだけ驚いた。


「お前が言うのか、それを」

「うちが言うから意味あるんやろ」

 ほのかは笑った。今度は少しだけ、本物の笑い方に近かった。

「あの子のこと、おかしいと思ってるのは分かってる。うちも思ってる。でも」

 ひと呼吸置いて、言葉を継ぐ。

「向こうに行って、もっと変わるかもしれへん。そのときに、晴くんがちゃんと見ててやらんと」

「……ああ」

「見て見ぬふりしたら、うち許さへんからな」

「分かった」


 短く返す。

 ほのかは満足したように頷いて、踵を返した。


「帰る。寒いし」

「送ろうか」

「ええって。すぐそこやし」


 歩き出したほのかの背中を、晴斗は見送った。

 角を曲がる直前、ほのかが一度だけ振り返った。


 何か言うのかと思ったが、言わなかった。

 ただ、一度だけ手を上げた。

 それだけで、また前を向いて歩いていった。

 その後ろ姿が、

 角の向こうに消えるまで、

 晴斗は玄関に立ったままだった。


 その夜、晴斗はなかなか眠れなかった。

 天井を見ながら、東京での日々を思い返していた。


 恵子が双子を連れてきた日。

 袖を掴まれた感触。

 水たまりに映った影のズレ。

 古い校舎の鏡の前で感じた「順番の違い」。

 ほのかのリードが折れる寸前の音。


 そして、夕奈が少しずつ変わっていく過程。

 食堂で立ち尽くしていた夕奈の背中。

 うどんにしとけばと言ってしまった自分。


(東京にいれば、違ったんだろうか)


 その問いが、初めて浮かんだ。

 向こうに行けば環境が変わる。

 鏡淵という街が、

 夕奈にとってどういう場所なのかは、まだ分からない。

 

 でも——変わった環境の中で、

 夕奈がもっと変わっていくことへの、

 漠然とした恐怖があった。

 

 ここにいる間は、少なくとも「いつもの場所」だった。

 学校も、

 帰り道も、

 駄菓子屋も、

 全部いつもの場所だった。


 そういう「いつも」が、

 夕奈を辛うじてどこかに繋ぎ止めていたのかもしれない。

 向こうに行けば、その「いつも」がなくなる。

 

 新しい街、

 新しい学校、

 新しい人間関係。


 夕奈がそれに適応できるとは、

 晴斗にはとても思えなかった。


 適応しようとするとき、

 夕奈が真っ先にすることは——晴斗に全部委ねることだ。

 

(それを、俺は止められるか)


 答えが出ないまま、時間だけが過ぎていく。

 廊下から足音がした。

 軽くて、迷いのない足音。

 やがて、ドアが静かに開いた。


「お兄ちゃん、眠れない」


 夕奈だった。

 パジャマ姿で、

 少しだけ眠そうな目をして、立っている。


 晴斗は答える前に、夕奈の顔を見た。

 いつも通りの夕奈だった。

 晴斗を探して来た、いつも通りの夕奈。

 それがもう、完全に当たり前になっている。


「……おいで」


 気づけば、そう言っていた。

 夕奈が迷いなく入ってきて、

 ベッドの端に座る。袖を掴む。

 その感触が、いつも通りに届く。


 晴斗は天井を見たまま、小さく息を吐いた。

 東京での最後の夜が、静かに過ぎていく。


 明日からは変わる。何かが変わる。

 どう変わるかは、まだ分からない。


 でも、この感触だけは——変わらない気がして、

 それが安堵なのか、

 恐怖なのか、

 晴斗にはまだ答えが出なかった。


 夕奈の寝息が、また始まった。

 窓の外で、桜の花びらが一枚、風に飛んでいくのが見えた。

 東京の夜は、それを静かに受け取って、どこかへ運んでいった。


 今回描きたかったのは、「場所」が人を支えているという感覚です。


 夕奈は晴斗へ依存しています。

 でも実際には、それだけではありません。


 学校。

 帰り道。

 駄菓子屋。

 東京という街そのものが、夕奈を現実へ繋ぎ止めていた。


 だから晴斗は、鏡淵へ行くことに恐怖を感じ始めています。


 環境が変われば、夕奈はさらに晴斗へ委ねる。

 その未来を、彼はもう想像できてしまっている。


 一方で、ほのかは最後まで「見る側」に残り続けています。

 止めきれない。

 でも、見て見ぬふりもしない。


 東京編は次章で一区切りになります。

 そしてその次から、“観測される街”鏡淵へ移ります。

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