第24話 ほのかの限界
一月から二月にかけて、この物語は大きな転換点に入っています。
これまでは「違和感」が中心でした。
鏡の順番、影のズレ、距離感の変化。
誰かが明確に壊れたわけではない。
でも、少しずつ何かがおかしくなっている。
その“観測の段階”が、ここで終わり始めています。
今回からは、登場人物たちがそれぞれ「自分の立場」を自覚し始めます。
晴斗は、自分が夕奈を依存させた側かもしれないと気づき始めた。
夕莉は、観測するだけでは止められないことを理解し始めた。
ほのかは、「おかしい」と言葉にしようと足掻き始めた。
そして夕奈は、晴斗との関係を守ろうとし始めている。
重要なのは、この誰も“悪意”で動いていないことです。
優しさ。
安心。
家族になろうとする努力。
寄り添おうとした結果。
その全部が、少しずつ一人の少女の輪郭を溶かしていく。
この物語はホラーですが、怪異そのものよりも、「善意が境界を壊していく過程」を描いています。
静かに進行しているものほど、人は気づけない。
気づいた頃には、もう“それが普通”になっている。
ここから先は、その“普通”を誰が壊せるのか、という話になっていきます。
二月の半ば、放課後の音楽室は静かだった。
吹奏楽部の全体練習は週三回で、
この日は個人練習の日だった。
ほのかはいつも、こういう日に一番長く残る。
誰もいない音楽室で、
自分のペースでオーボエを吹く時間が、
彼女にとっての「整える時間」だった。
でも今日は、なかなか音が出なかった。
リードをくわえて、息を入れる。
音は出る。
技術的には問題ない。
でも、何かが違う。
自分の音が、自分のものじゃないような感じがする。
どこかで、別の誰かが吹いているような。
ほのかは楽器を下ろして、
椅子の背もたれに寄りかかった。
天井を見上げる。蛍光灯が、静かに白い光を落としている。
(あかん、集中できへん)
頭の中にあるのは、昼休みの食堂の光景だった。
夕奈が、メニューの前で立ち尽くしていた。
何を選べばいいか分からない顔で、
何度も見上げて、また考えて。
後ろに列ができていても、気づいていなかった。
そこに晴斗が来て、うどんにしとけばと言った。
夕奈が、迷いなく頷いた。
その一連の流れを、ほのかは少し離れた場所から見ていた。
見てしまった。見たくなかったわけじゃない。
ただ、見た後に残ったものが、ずっと胸の中に引っかかっていた。
(あの子、自分で決められへんようになってる。)
分かっていた。薄々、ずっと前から分かっていた。
でも今日、はっきりと目で見てしまった。
ほのかはオーボエを膝の上に置いて、手の中で少しだけ弄んだ。
言うべきか、言わざるべきか。
晴斗に言えば、きっと否定する。
大丈夫だよ、とか。
そんなことないよ、とか。
あるいは、お前の気のせいじゃないか、と。
優しい言葉で、流される。
それが目に見えていた。
夕奈に直接言えば——どうなるだろう。
夕奈はきっと、笑顔で返す。
大丈夫だよ、とか。
気にしてないよ、とか。
でもその笑顔の奥に何があるかを、
ほのかはもう知ってしまっていた。
(うち一人が気にしても、何も変わらへんのかな)
その考えが浮かんだ瞬間、ほのかは自分に苛立った。
そんな言い訳で、黙ってていいわけがない。
気づいているのに、
言わないのは、
言わないことを選んでいるのと同じだ。
椅子から立ち上がる。
オーボエを丁寧にケースに戻す。
今日、言おう。
心の中でそう決めた。
廊下に出ると、夕奈が壁に寄りかかって立っていた。
晴斗を待っているのだろう。
スマートフォンも見ず、
イヤホンもせず、
ただそこに立って、
廊下の先を見ていた。
人を待つというより、座標に留まっているような立ち方だった。
「夕奈ちゃん」
ほのかが声をかけると、夕奈がゆっくりと振り返った。
「ほのかちゃん」
笑顔。いつも通りの、完璧な笑顔。
ほのかは少しだけ深呼吸をして、夕奈の隣に立った。
壁に背を預けて、同じ方向を向く。
正面から話すよりも並んで話す方が、言いやすい気がした。
「なあ、夕奈ちゃん」
「うん?」
「最近、お昼ごはん、自分で選んでる?」
夕奈が、少しだけ間を置いた。
「選んでるよ」
「ほんまに?」
「うん」
迷いのない答えだった。
でも、その迷いのなさが、逆に引っかかった。
「今日、晴くんに聞いてたやんか」
夕奈は、また少しだけ間を置く。
「……聞いてもいいやんか」
「聞くのはいいけど」
ほのかは続ける。言葉を選びながら、でも止まらずに。
「聞かへんと決められへんのと、聞きたくて聞くのは、違うと思う」
沈黙。
廊下の向こうから、誰かの足音が聞こえてくる。
遠くて、だんだん近づいてくる。
「夕奈ちゃん、最近」
ほのかは続けようとした。
自分で決めることが、できへんようになってきてへん?
その言葉が、喉の手前まで来た。
でも。
「ほのかちゃん」
夕奈が、静かに遮った。
振り返ると、夕奈はほのかを見ていた。
笑顔ではなかった。かといって、
怒っているわけでもない。
ただ、何かを見ているような目だった。
「お兄ちゃんのこと、好き?」
唐突な問いだった。
ほのかは、一瞬だけ言葉を失った。
「……は? なんで急に」
「好きなんじゃないか、と思って」
夕奈の声は、平坦だった。
責めているわけでも、からかっているわけでもない。
ただ、事実を確認しているような声。
「そういう話ちゃうやんか」
「でも、関係ある気がする」
夕奈は、また廊下の先を向く。
「ほのかちゃんが心配してくれてるのは、分かるよ」
その言い方が、
あまりにも静かで、
あまりにも落ち着いていて、
ほのかは少しだけ怯んだ。
「でもね」
夕奈が続ける。
「お兄ちゃんのそばにいると、安心するの。それの何がいけないの?」
問いかけ。
でも、答えを求めていない問いだった。
ほのかは言葉を探した。
何がいけないのか。
上手く言語化できれば、返せる。
でも言語化しようとすると、うまく形にならない。
安心するのは悪くない。
でも、それ以外の全部を手放してしまうのが、おかしい。
自分で決める力を、少しずつ失っていくのが、怖い。
そう言いたかった。
でも。
「……うちは」
口を開いた瞬間、足音が止まった。
「ほのか」
晴斗だった。
廊下の向こうから歩いてきた晴斗が、二人を見て少しだけ首を傾げた。
「何してんの、二人とも」
「なんでもない」
夕奈が先に答えた。
その「なんでもない」が、ほのかの言葉を押し流した。
晴斗は特に深く聞かずに、夕奈の隣に来た。
夕奈が、当然のように袖を掴む。
その動作に、迷いがない。
「帰ろうか」
「うん」
二人が歩き出す。
ほのかも、少し遅れてついていく。
言えなかった。
また、言えなかった。
夕奈に「何がいけないの?」と聞かれた瞬間に、
言葉が止まってしまった。
何がいけないのかを、ほのかは言語化できなかった。
感じている。確かに感じている。
でも、言葉にしようとすると、形が崩れる。
(うちがおかしいんかな)
その考えが、また浮かんでくる。
自分だけが騒いでいて、
本人たちは何も感じていなくて、
晴斗も気にしていなくて、
ただほのか一人が空回りしているだけなんじゃないか。
廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
三人の影が、床に伸びる。
晴斗の隣に、夕奈の影がぴったりと寄り添っている。
ほのかの影だけが、少しだけ、外れた場所にあった。
(それでも、次は言わんとあかんな。)
歩きながら、ほのかは思った。
今日は言えなかった。
でも、諦めたわけじゃない。
言い方を変えて、
タイミングを変えて、
もう一度だけ試す。
オーボエのケースが、
手の中で急に重く存在を主張していた。
その重さだけが、
今のほのかには確かなものとして感じられた。
今回の中心は、ほのかでした。
この物語の中で、ほのかだけが「おかしい」と言葉にしようとしている存在です。
晴斗は気づいていても止まれない。
夕莉は観測していても踏み込めない。
夕奈はもう、その関係を“安心できる居場所”として受け入れ始めている。
だからこそ、ほのかの立場は苦しい。
違和感を感じている。
でも、それをうまく説明できない。
しかも本人たちは苦しんでいるように見えない。
この「言語化できない危機感」は、人間関係の怖さの一つだと思っています。
そして今回、夕奈は初めて“防御”をしました。
「お兄ちゃんのこと、好き?」という問いは、単なる恋愛的な揺さぶりではありません。ほのかの立場そのものを揺らすための問いです。
夕奈は無自覚に依存しているだけではなく、もう無意識に「関係を守る動き」を始めている。
静かな会話だけの回ですが、水面下ではかなり危ういところまで来ています。




