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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第2章:あたたかな崩壊

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第23話 最初の欠落

 人は、急には壊れません。


 少しずつ慣れて、

 少しずつ委ねて、

 少しずつ「自分で決めなくてもいい形」に馴染んでいく。


 そして気づいた頃には、それが“普通”になっている。


 今回の話は、そんな「普通」が崩れ始める回です。


 夕奈は、自分で選べなくなりつつある。

 晴斗は、その原因が自分にあると理解し始めている。


 けれど、理解したからといって、すぐ正しい行動が取れるわけではありません。


 優しさで支えていたはずなのに、

 その優しさが誰かの足を奪っていたかもしれない。


 その事実と向き合うことは、とても苦しい。


 冬の乾いた光の中で、少しずつ形になっていく違和感を、今回は読んでもらえたらと思います。

 二月になった。


 東京の冬は、一年で一番乾いている。

 空気が薄く、光が鋭く、影の輪郭だけが妙にくっきりとしている。


 そういう季節の中で、

 瀬戸家の日常は相変わらず静かに、

 でも確実に、形を変え続けていた。


 それは、ほんの些細な出来事から始まった。


 その日の朝、夕奈は洗面所に来なかった。

 晴斗は七時に起きて、いつも通り洗面所に向かった。

 ヘアオイルを掌に出して、擦り合わせて、体温で温めた。

 来るはずの気配を待った。

 

 来なかった。

 五分待っても、十分待っても、廊下から足音がしない。


(珍しい)


 そう思いながら、晴斗は自分の支度だけ済ませた。

 不思議と、その「来なかった」という事実が、

 妙に大きく感じられた。


 毎朝繰り返してきた習慣が一度だけ途切れただけなのに、

 何かが欠けたような、奇妙な空白感があった。

 

 朝食の席に行くと、夕奈はすでに座っていた。

 髪はゴムで雑に束ねてあった。

 リボンはしていない。


「今日、来なかったな」

 晴斗が言うと、夕奈は少しだけ顔を上げた。

「……うん」

「どうした」

「なんでもない」


 短く答えて、また味噌汁の表面を見る。

 その横顔が、いつもより少しだけ硬かった。


 恵子が、二人のやり取りを見ていた。

 何も言わなかったが、

 夕奈の髪を一度だけ視線でなぞってから、

 目を逸らした。


 学校に向かう途中、夕奈は晴斗の袖を掴まなかった。

 最初は気づかなかった。

 いつもの場所に手が来るだろうと、体が思っていた。

 でも来ない。

 夕奈は晴斗の左隣を歩いていたが、

 その手は自分の鞄の持ち手を握ったまま、動かなかった。

 

 五分ほど歩いたところで、晴斗は気づいた。

 気づいた瞬間、

 何と表現すればいいか分からない感覚が来た。

 

 安堵、ではなかった。

 違和感、とも少し違う。

 何かが「ない」という事実が、

 予想以上に存在感を持って、

 胸の中に居座っていた。


(……俺、何を感じてるんだ)

 自分への問いが、すぐに出てきた。


 安堵すべきだった。

 夕奈が少し自立しようとしているなら、

 それは良いことのはずだった。


 昨夜、自分が加害者かもしれないと気づいて、

 このままではいけないと思ったばかりだった。

 

 なのに。

 その「ない」が、どこか寂しかった。

 その感覚に気づいた瞬間、晴斗は自分を恥じた。

 自分が夕奈の依存を助長してきた側なのに、

 依存が少し薄れた瞬間に寂しいと感じている。


 その矛盾が、じわりと嫌な感触を残した。


     * * *


 昼休み、食堂で夕奈は一人でトレーを持っていた。

 晴斗が気づいたのは、たまたまだった。

 購買に向かう途中、食堂の入口で夕奈の後ろ姿を見かけた。

 いつもなら晴斗の隣にいるはずの彼女が、

 一人でメニューの前に立っている。


 その立ち方が、少しだけ変だった。

 どれを選べばいいか、分からない人間の立ち方をしていた。

 メニューを見上げて、

 少し考えて、

 また見上げて、

 また考えて。

 その繰り返しが、五回、六回と続いている。

 

 後ろに並んでいた男子が、少しだけ迷惑そうな顔をした。

 晴斗は気づかれないように近づいて、夕奈の隣に立った。


「どれにする」


 声をかけると、夕奈がぱっと顔を上げた。

 その顔に、安堵が広がるのを、晴斗は見た。

 隠しようのない、全身で息をついたような安堵。

 まるで、長い間息を止めていて、やっと吸えたような。


「……お兄ちゃん」

「どれにするか決められなかった?」

 夕奈は少しだけ黙ってから、頷いた。

「なんか、分かんなくて」

「何が食べたいかってこと?」

「……うん」


 小さな声だった。

 晴斗は、その「分かんない」をどう受け取ればいいか、一瞬だけ考えた。


 食べたいものが分からない。

 それは、好みがないということではない。

 何が自分にとって正解なのかを、

 自分で判断できなくなっているということだ。

 判断の基準を、外側に委ねることに慣れすぎて、

 自分の内側にある感覚が、薄れてきている。


(これが、昨夜俺が気づいたことの、実例だ)


 晴斗は思う。

 見てしまった。

 言葉ではなく、実際の場面として。

 夕奈が自分で決められなくなっていることを、

 こうして目の前で確認してしまった。


「……うどんにしとけば」


 結局、そう伝えてしまう。

 別の言葉を選ぼうとした。

 自分で決めてみなよ、とか。

 何でも好きなものでいいよ、とか。


 でも夕奈の表情を見ていたら、

 そういう言葉が出てこなかった。

 今この瞬間に突き放せば、

 夕奈はこのまま何も選べないまま立ち尽くすだろうという確信があった。


 夕奈は迷わず頷いて、うどんのボタンを押した。

 その動作があまりにも迷いなくて、

 晴斗はまた、嫌な感触を覚えた。

 

 答えを与えられた瞬間の、あの迷いのなさ。

 自分で考えることよりも、

 誰かに決めてもらうことの方が、

 もうずっと楽になっている。


(俺が決めてやることが、この子の自分で決める力を奪っていく。)

(それを分かっていても、俺はまた決めてしまった。)


 トレーを持って歩き出す夕奈の後ろを、

 晴斗はついていく。


 昨夜、変えようと決めたはずだった。

 でも、今日の昼休みだけで、もう二回流してしまった。


 それが意志の弱さなのか、

 あるいは「今すぐ変えることが本当に正しいのか」という迷いなのか、

 自分では判断できなかった。


 ただ、一つだけ確かなことがある。


(これは、俺が作った状況だ。)


 夕奈が選べなくなったのは、

 選ばなくて済む環境を、晴斗が作り続けてきたからだ。

 その事実から、もう目を逸らせない。


 食堂の窓から、冬の光が差し込んでいた。

 夕奈は迷いなく席に座って、うどんを食べ始めた。

 その横顔は、安心しきっていた。


 晴斗は向かいに座りながら、

 その顔を見て、小さく息を吐いた。

 どうすればいいのか、まだ分からない。


 でも、無意識に流すことだけは、もうやめようと思った。

 一回一回、意識して選ぶ。それだけが、今の自分にできることだった。

 うどんの湯気が、二人の間に立ち上っていた。

 今回の話では、「依存される側」の揺れを描きました。


 夕奈が変わっていくことは、これまでも描いてきました。けれど本当に厄介なのは、その変化が晴斗にとっても“心地よさ”を伴っていることです。


 袖を掴まれない朝。

 隣に来ない帰り道。


 本来なら「良い変化」のはずなのに、そこに空白や寂しさを感じてしまう。晴斗はそこで初めて、自分自身もまた関係に依存していたことに気づき始めます。


 そして今回、夕奈の「決められなさ」が具体的な行動として現れました。これは大きな転換点です。曖昧な違和感ではなく、現実の問題として形になってしまった。


 それでも晴斗は、すぐには変えられない。優しさと責任と恐怖が、全部絡み合っているからです。


 静かな食堂のうどん一杯の場面ですが、この物語の中ではかなり重い回だったと思っています。

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