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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第2章:あたたかな崩壊

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第22話 晴斗の罪

 誰かに必要とされることは、きっと嬉しいことです。


 頼られること。

 名前を呼ばれること。

 「一緒にいて」と求められること。


 それ自体は、決して悪いものではありません。


 でも——もし、その関係が少しずつ「一人では立てなくなる形」に変わっていたとしたら。


 今回の話では、晴斗が初めて、自分自身の役割を最後まで見つめます。

 優しさだったのか。

 甘さだったのか。

 それとも、依存を受け入れてしまった弱さだったのか。


 答えはまだ出ません。

 けれど、「見ないふりをやめる」という変化だけが、静かに始まります。


 冬の深夜、静かな部屋で辿り着いた問いを、読んでもらえたら嬉しいです。

 一月の終わり、晴斗は初めて、その問いを最後まで辿った。


 夜の十一時過ぎ。

 家の中は静かで、宗一はまだ帰っていない。

 恵子の部屋の灯りはもう消えていた。

 夕莉の部屋からも音がしない。


 晴斗は自分の部屋のデスクに座って、教科書を開いていた。

 テスト前の勉強のはずだったが、

 ページは三十分前から同じところで止まっている。


 隣の気配を、感じていた。

 夕奈が来たのは九時過ぎだった。

 いつも通り、

 ノックなしに扉を開けて、

 ベッドの端に座って、袖を掴んだ。


 それから一言も喋らないまま、二時間が過ぎていた。

 寝息が聞こえるから、もう眠っているのだと思う。


 晴斗は教科書から目を離して、天井を見た。


(俺が甘やかすから、この子はこうなったんじゃないか)


 その問いは、何度も浮かんでいた。

 でもいつも、途中で止めていた。

 結論まで辿り着けば、

 何かを変えなければならなくなるから。

 変えることへの恐怖が、思考を遮断していた。


 でも今夜は、止まらなかった。


(最初に、お兄ちゃんと呼ばせたのは恵子さんだ。でも、その呼び方を受け入れたのは俺だ。)

(髪を結うことを、断れなかった。離せよと言えなかった。突き放すべきタイミングで、毎回流した。)

(夕奈が自分で決められなくなっていくのを、見ていた。見ていながら、止めなかった。止める代わりに、代わりに決めてやった。)


 天井の染みを見ながら、晴斗は思考を止めない。

 ここまで来ると、問いの輪郭がはっきりしてくる。


(俺は、この子の「自分で考える力」を、少しずつ奪ってきたんじゃないか。)


 その結論が、静かに着地した。

 衝撃は、思ったほど大きくなかった。

 むしろ、ずっと薄々感じていたことが、

 ただ言語化されただけという感覚だった。

 

 分かっていた。

 分かっていながら、

 目を逸らし続けてきた。


 袖を掴む指が、眠りの中で少しだけ動いた。

 晴斗はそれを見て、目を閉じる。


(じゃあ、どうすればよかったんだ。)


 答えは出ない。

 突き放せばよかったのか。

 最初からお兄ちゃんという呼び方を拒否すればよかったのか。

 恵子に「これはおかしい」と言えばよかったのか。


 どれも、できた気がしない。

 できなかった理由を探せば、いくらでも出てくる。

 

 相手は子どもで、

 引っ越してきたばかりで、

 不安そうで、自分を頼ってくれていて——。

 

 でも。

(それ全部、言い訳だ。)


 晴斗は思う。

 受け入れやすかったのだ。

 夕奈が自分に依存してくることが。

 それを認めるのは恥ずかしかったが、

 正直に辿ればそこに行き着く。


 夕奈は可愛かった。

 自分を必要としてくれることが、嬉しかった。

 お兄ちゃんという言葉が、

 重かったけれど、

 どこかで心地よかった。


 その心地よさの代償が、今の夕奈だとしたら。


(俺が、この子をこうしてしまったのかもしれない。)


 今夜初めて、その問いを最後まで言い切った。

 言い切っても、世界は何も変わらなかった。


 部屋は静かで、

 夕奈の寝息は規則正しく続いていて、

 窓の外には冬の夜が広がっている。


 ただ、晴斗の中で何かが変わった。

 小さな変化だった。

 でも、取り消せない変化だった。


(じゃあ、これから。)


 どうすればいい。

 突き放すことが、本当に夕奈のためになるのか。

 今さら変えようとすれば、

 夕奈は壊れてしまうんじゃないか。

 壊れかけているものを、

 さらに揺らしていいのか。


 答えが出ないまま、時間だけが進んでいく。

 デスクの上の時計が、十一時半を指していた。


 晴斗は椅子から立ち上がり、

 ベッドの端に座る夕奈の隣に腰を下ろした。

 起こさないように、静かに。


 眠っている夕奈の顔は、穏やかだった。

 昼間の、少しだけ平坦になった表情ではなく、

 眠っているときだけ現れる、子どものような顔。

 ただ眠っているだけの、ただの女の子の顔。


(お前は、本当は何がしたかったんだろう)


 声に出さずに、思う。

 晴斗がいなければ、何も決められなくなる前に。

 恵子さんに出会う前に。

 お兄ちゃんと呼ぶことを覚える前に。


 夕奈は、何者になりたかったんだろう。

 答えは返ってこない。

 眠っている夕奈は、ただ静かに呼吸している。

 袖を掴む指が、また少しだけ動く。

 眠りながらも、離さない。


 晴斗はその指を見て、小さく息を吐く。

 突き放せない。

 今夜、自分が加害者かもしれないと分かっても、

 この指を振り払うことはできない。

 それが弱さなのか、

 あるいは別の何かなのか、まだ言葉にできない。


 ただ、一つだけ分かることがある。


 (このまま、何もしないでいることは、もうできない。)


 それだけが、今夜の結論だった。

 どうするかは、まだ分からない。

 でも、見て見ぬふりをやめることだけは、決めた。


 窓の外で、冬の風が鳴いた。

 夕奈の寝息は、変わらず続いていた。

 「優しくすること」と「奪うこと」の境界は、どこにあるのか。

 今回の話は、その問いに晴斗が初めて真正面から触れた回でした。


 夕奈は壊れていく存在ではなく、静かに“形を変えている”存在です。

 そして怖いのは、その変化が暴力や強制ではなく、「安心」や「心地よさ」の延長線上で進んでいることでした。


 晴斗もまた、被害者であり加害者です。

 だからこそ、簡単に拒絶できない。


 この夜は、物語の中で初めて「見ないふり」が終わった夜なのだと思います。

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