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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第2章:あたたかな崩壊

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第21話 季節が変わる

 人は、急には変わりません。


 少しずつ。

 本当に少しずつ、日常の中で形を変えていく。


 今日の話では、そんな「緩やかな変質」を描いています。


 朝、髪を結んでもらうこと。

 昼、同じものを選ぶこと。

 帰り道、隣を歩くこと。


 一つひとつは、小さくて、優しくて、どこにでもある行為です。


 でも、その積み重ねが「自分で選ばなくてもいい」に変わったとき。

 その人は、どこまで“自分”でいられるのか。


 今回は、派手な怪異は出てきません。

 けれど、静かな日常の奥で、確実に何かが進行しています。


 冬の冷たい光の中で変わっていく関係を、感じてもらえたら嬉しいです。

 十二月になった。


 東京の冬は、鏡淵ほど閉じていない。

 街に人が溢れ、

 イルミネーションが灯り、

 どこかに向かう人たちの足音が絶えない。


 その開かれた騒がしさの中で、瀬戸家の日常だけが、

 少しずつ違う方向に向かっていた。


 変化は、小さかった。

 朝、夕奈が自分で髪を結ぼうとしなくなったのは、いつからだろう。

 気づいたときにはすでに、

 洗面所に来た晴斗の前にちょこんと座ることが「当たり前」になっていた。

 リボンを渡す動作も、目を閉じて待つ表情も、

 まるで最初からそうであったかのように自然に、日常の中に収まっていた。


 昼、学校の購買で何を買うかを決められなくなったのも、同じ頃だった。


「晴斗お兄ちゃんは何にする?」


 それが夕奈の答えだった。

 自分が何を食べたいかではなく、

 晴斗が何を選ぶかを確認してから、同じものを選ぶ。

 あるいは、晴斗が選んだものの隣にあるものを選ぶ。

 理由を聞いても、「なんとなく」としか答えない。


 夕方、帰り道に寄り道の提案ができなくなったのも、

 気づけばそうなっていた。


「どこか行きたいとこある?」

 晴斗が聞くと、夕奈は少しだけ考えてから言う。

「お兄ちゃんが行きたいところ」

 いつも、そう答える。


 晴斗はその都度、どこかに行き先を決めた。

 駄菓子屋、

 公園、

 本屋。

 夕奈はどこでも楽しそうにしていた。

 でも、それは「そこに行きたかった」のではなく、

 「晴斗と一緒にいられた」ことが楽しかったのだと、

 今なら分かる気がした。


(これは、普通じゃない)


 晴斗は何度かそう思った。

 思うたびに、どうすればいいかを考えた。

 でも、考えが結論まで辿り着く前に、夕奈が何かを言う。

 名前を呼ぶ。

 袖を掴む。

 その感触に引き戻されて、思考が途切れる。

 それの繰り返しだった。


     * * *


 ほのかは、年が変わる前に一度だけ、晴斗に言いかけた。


 冬休みに入る直前の午後、

 二人でリビングの片付けを手伝っていたときのことだった。


 夕奈は別の部屋にいて、夕莉は図書館に行っていた。

 久しぶりに、晴斗とほのかだけの時間だった。


「なあ晴くん」

 棚の埃を拭きながら、ほのかが言う。いつもより少しだけ声が低い。

「夕奈ちゃんのこと、どう思う」

「どうって」

「……自分で何も決めへんやんか、最近」

 ほのかは手を止めない。布巾を動かしながら、目線を棚に向けたまま続ける。

「ご飯も、帰り道も、全部晴くんに合わせて。それって」


 言葉が、そこで止まる。

 晴斗は返事をしなかった。できなかった、

 というより——何を返せばいいのか分からなかった。


 ほのかが言おうとしていることは、自分も感じていることだったから。

 でも、それを言葉にして確定させることへの抵抗が、

 喉の手前で声を止めた。


「……でも、嫌がってるわけじゃないし」

 結局、そう言った。

 ほのかが、少しだけ手を止める。

「そやな」

 短く答えて、また手を動かし始める。


 その「そやな」が、同意なのか、諦めなのか、

 晴斗には判断できなかった。

 ただ、その一言を最後に、ほのかはその話を続けなかった。


 窓の外に、冬の光が差し込んでいた。

 短くて、

 白くて、

 少しだけ寂しい光。

 それが床に長い影を作っている。

 

 晴斗とほのかの影が、並んでいる。

 いつもの位置に、いつもの距離で。

 

 でも、その「いつも」が、

 少しずつ変わっていることを、二人とも感じていた。

 言葉にはしなかった。

 する必要もなかった。

 ただ、変わっていくということだけが、部屋の空気の中にあった。


   * * *


 年が明けた。


 正月、瀬戸家は静かだった。

 宗一は仕事の書類を持ち帰っていて、食卓に座っていてもどこか遠い。

 恵子だけが場を整え、温かい雑煮を出して、

 それぞれの顔を確認するように見回していた。


 夕奈は、晴斗の隣から離れなかった。

 雑煮の椀を両手で持って、少しだけ熱そうにしながら、

 

 でも晴斗の袖だけは放さない。

 その器用さが、今ではもう不思議にも思えなかった。

 そういうものだと、体が覚えてしまっていた。


「夕奈、熱くない?」

「平気」

 短く答えて、また椀に視線を戻す。


 平気、という言葉が、少しだけ引っかかった。

 以前の夕奈なら、熱いと言っただろう。そういうとき、晴斗に「冷ましてあげようか」と言わせるために、わざと困った顔をしただろう。でも今は、そういう「仕掛け」すらなくなっていた。

 ただ、そこにいる。晴斗の隣に。

 それだけで、十分になっている。


(……そっちの方が、怖い)


 晴斗は思う。

 何かを求めて動く夕奈より、

 ただそこに在る夕奈の方が。その静けさの中に、

 何か取り返しのつかないものが進行しているような気がして。


 夕莉が、雑煮を静かに食べながら、一度だけ姉を見た。

 その視線の意味を、晴斗は読めなかった。


 恵子が、誰にともなく言う。


「今年もよろしくね、みんな」


 その声は明るくて、やわらかくて、

 本物の温かさを持っていた。


 でも、窓の外に視線を向けた一瞬だけ——恵子の表情から、

 何かが抜け落ちた気がした。


 何を見ていたのか、

 何を思っていたのか、

 晴斗には分からなかった。

 ほんの一瞬のことで、すぐに元の笑顔に戻っていた。


(気のせいか)


 そう思うことにして、

 晴斗は雑煮の椀に視線を戻した。


 新しい年が、静かに始まっていた。

 夕奈の指が、袖の布をきゅ、と掴む。


 その感触だけが、確かにそこにあった。

十二月から正月にかけての今回は、「変化しているのに、誰も止められない時間」を中心に描きました。


夕奈は壊れているわけではありません。むしろ穏やかで、静かで、問題なく見える。だからこそ怖い。自分で決めることを少しずつ手放し、「晴斗の隣にいること」だけで成立していく存在になっていく。その変化は劇的ではなく、日常に溶け込む形で進行していきます。


そして今回、ほのかも夕莉も、その異常に気づいています。けれど気づいた瞬間に関係が壊れてしまう怖さがある。だから誰も決定的な言葉にできない。


鏡淵の恐ろしさは、怪異そのものより、「正常と異常の境界が静かに書き換わること」なのかもしれません。

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