第17話 最初のズレ
ズレは、音もなく始まる。
それは壊れる前触れじゃなくて、
――まだ壊れていないことの証明みたいに、静かにそこにある。
その日の放課後、
晴斗とほのかは瀬戸家のキッチンに立っていた。
宗一も恵子も帰りが遅い日は、
こうして二人で夕飯の準備をする。
同居が始まってからも、その習慣は変わらなかった。
むしろ、人数が増えた分だけ、作る量が増えた。
「これ、もう少し薄く切った方がよくない?」
「それくらいでいい」
「ほんまに? なんか厚くない?」
「ほのかが薄すぎるんだよ、いつも」
「失礼な! うちの切り方は丁寧なんや!」
軽口を叩きながら、手を動かす。包丁の音が、リズムよく響く。
リビングでは夕莉が宿題をしていた。
静かで、邪魔にならない存在感。
いつも通りだ。
「夕奈は?」
ほのかが聞く。
「さっきまでいたけど」
晴斗が答えた瞬間。
「お兄ちゃん」
背後から声がした。
振り返ると、夕奈がキッチンの入口に立っていた。
いつの間に来たのか、分からなかった。音がしなかった。
「どうした」
「……なんでもない」
そう言って、入ってくる。迷いなく晴斗の隣に立つ。袖を掴む。
「夕奈ちゃん、危ないで。包丁使ってるし」
ほのかが言う。
「大丈夫」
短く返す。晴斗の袖を掴んだまま、動かない。
晴斗は包丁を動かし続ける。
夕奈がいる。
邪魔といえば邪魔だ。
でも、追い出す気にもなれない。
そのとき。
包丁の音が、一拍だけ遅れた気がした。
打ち付ける感触は先に来るのに、
音だけが後から追いついてくるような——奇妙なズレ。
(……疲れてるな)
気のせいだと判断して、手を動かし続ける。
だが。
「お兄ちゃん」
夕奈がもう一度呼ぶ。
「なに」
「……ずっと、ここにいていい?」
問いかけ。
でも、答えを求めている声じゃなかった。
すでに決めている人間の、確認だった。
「……邪魔しないなら」
「邪魔しない」
即答。
そのまま、夕奈は動かない。
袖を掴んだまま。晴斗が包丁を動かすたびに、少しだけ揺れながら。
ほのかは何も言わない。
ただ、自分の手元を見ながら、少しだけ包丁の速度を落とした。
夕奈の「ずっと、ここにいていい?」という言葉が、
キッチンの空気の中に、遅れてもう一度響いた気がした。
鏡はない。
なのに——その問いだけが、
どこかに反射して残っている気がした。
この回は「ズレの初観測」。
でもポイントは、“誰もそれを確定しない”こと。
・音が二重になる
・タイミングが揃わない
・先に起きたか後か分からない
全部、説明できそうでできないラインに置いてる。
ここで断定させないのが大事。
確定した瞬間にホラーになるけど、今はまだ“日常の延長”だから。




