第16話 何もおかしくない日
違和感は、あるときだけ怖いわけじゃない。
どこにも見つからないときのほうが、ずっと厄介だ。
――それでも人は、「何もない」と言い切ってしまう。
同居が始まってから、三ヶ月が過ぎた。
朝の空気が少しだけ冷たくなり始めた頃。
晴斗の生活は、気づけば新しいリズムに塗り替わっていた。
目が覚める。洗面所に行く。
夕奈が来る。髪を結う。
朝食を食べる。
ほのかが来る。
学校へ行く。
その順番が、もう当たり前になっていた。
(何もおかしくない)
登校しながら、晴斗はぼんやりとそう思う。
隣では夕奈が袖を掴んだまま歩いている。
少し後ろではほのかがしゃべり続けている。
前を行く夕莉は、いつも通り少しだけ速い。
「晴くん、聞いてる?」
「聞いてる」
「絶対聞いてへんやろ。さっきから返事が『うん』しかないやん」
「それで十分だろ」
「十分ちゃうわ!」
いつものやり取り。何も変わっていない。
(何もおかしくない)
もう一度、同じ言葉が頭の中に浮かぶ。
浮かぶたびに、少しだけ引っかかる。
何かを確かめているみたいに。
言い聞かせているみたいに。
でも、確かめる理由も、言い聞かせる理由も——思い当たらない。
「ねえ、お兄ちゃん」
夕奈が見上げてくる。
「今日、帰り一緒に帰れる?」
「……毎日一緒に帰ってるだろ」
「うん。でも、聞きたかっただけ」
笑う。完璧な笑顔。
晴斗はそれに頷いて、前に視線を戻す。
東京の住宅街は、今日も変わらない。
自転車が通り過ぎる。犬を連れた老人が歩いている。
信号が赤から青に変わる。
全部、いつも通り。
(何もおかしくない)
三度目の繰り返しが、今度は少しだけ重く沈んだ気がした。
理由は、分からなかった。
ここは“違和感ゼロ”の回。
でもゼロって、実はかなり不自然な値なんだよね。
これまで積み上げてきた微細なズレが、いったん完全に見えなくなる。
それは解決じゃなくて、「均された状態」。
次はたぶん、その均しがどこかで剥がれる。




