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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第1章:あたたかな不協和音

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第15話 最初の夜

はじまりの夜は、たいてい特別なはずなのに。

この夜は、どこまでも“普通”に整っていた。

――整いすぎていることに、まだ誰も気づかない。

 その日の夜は、いつもより静かだった。


 人は増えているはずなのに、不思議と音が少ない。

 昼間の慌ただしさが嘘みたいに引いて、

 家全体がゆっくりと落ち着きを取り戻していく。


 夕食は、恵子が中心になって整えた。

 特別な料理ではないのに、

 温かいものが温かいまま出てきて、

 気づけば食卓は自然と形を持っていた。


 席はなんとなく決まっていた。

 宗一と恵子が並び、その向かいに晴斗が座る。

 その隣に夕奈がいて、少しだけ離れた位置に夕莉が座る。

 誰も決めていないのに、迷うことなくそうなった。


「どう? 口に合うかな」

 恵子がやわらかく尋ねる。

「うん、おいしい」

 夕奈がすぐに答える。

「よかった」

 安心したように微笑む。その表情には無理がない。

「晴斗くんは?」

「……おいしい」


 少しだけ間を置いて答える。

 嘘ではない。

 ちゃんとおいしい。

 なのに、その「ちゃんとおいしい」という感覚が、

 どこか遠い。


 宗一が何気なく言う。

「こうしてみると、にぎやかでいいな」

「そうね」

 恵子が穏やかに頷く。

「家って、やっぱり人がいてこそだもの」


 正しい。何も間違っていない。

 だからこそ、否定のしようがない。

 食事は穏やかに進む。

 会話も途切れず、笑いも混じる。

 誰も無理をしている様子はない。

 それぞれが、その場に収まっている。

 その光景は——完成していた。


(……なんで息苦しいんだろう)


 晴斗は箸を動かしながら、

 その問いを飲み込む。

 答えは出てこない。

 出てきそうにもない。


 食後、片付けを手伝おうと立ち上がると、

 恵子がやんわりと止める。


「今日はいいから、ゆっくりしてて」

「でも」

「最初の日くらい、ね」

 逆らう理由はない。

「じゃあ、お願い」


 自然とそう言って、手を引く。

 そのやり取りさえも、どこか馴染んでいる。


 部屋に戻る。

 昼間よりもさらに空間が整っているのが分かる。

 必要なものだけが残されて、余計なものは片付けられている。


 ベッドに腰を下ろすと、

 静かに一日が終わっていく感覚がある。

 疲れているはずなのに、妙に頭は冴えていた。

 

 今日から、変わった。

 はっきりと。

 その事実だけは、疑いようがない。

 

 それなのに——どこがどう変わったのかを言葉にしようとすると、

 うまく掴めない。

 

 しばらくして、廊下から小さな足音が聞こえる。

 軽くて、迷いのない音。

 止まる。

 ドアの前で。

 ノックはない。

 その代わりに、ゆっくりとドアが開く。


「お兄ちゃん」


 夕奈だった。

 パジャマ姿のまま、

 少しだけ眠そうな顔で立っている。


「どうした」

「……なんでもない」


 そう言いながら、中に入ってくる。

 迷いがない。

 そこが自分の場所だと分かっているみたいに。

 

 ベッドの端に座る。

 距離が近い。

 でも、それをおかしいと思う感覚が、うまく働かない。


「眠れないの?」

「ちょっとだけ」


 小さく答えて、袖を掴む。

 いつもの動き。

 昼間と同じ。


 しばらく、何も言わない時間が続く。

 外はもう静かで、家の中の音もほとんど消えている。

 呼吸のリズムだけが、ゆっくりと重なっていく。


 夕奈の力が、少しだけ緩む。

 寝息が、かすかに聞こえる。

 そのまま、動けずにいる。

 起こす理由はない。


 ふと、視線を上げる。

 部屋の隅に置かれた鏡が、

 わずかに光を拾っている。

 

 そこに映るのは、

 ベッドに座る自分と——眠りかけた夕奈の姿。

 

 何もおかしくない。

 ――ないはずだった。


 鏡の中の夕奈が、

 晴斗の方へ、わずかに顔を向けていた。

 

 現実の夕奈は、うつむいたまま眠っている。

 動いていない。


 なのに——鏡の中だけが、違う。

 瞬きをする。


 もう、元に戻っている。

 現実と、鏡が、同じ形をしている。

 

(……疲れてるんだ、僕)


 そう思おうとして——思い切れない。


 さっきの「違う向き」だけが、

 頭の隅に形のないまま残っている。


 夕奈の寝息が、静かに続く。

 袖を掴む指が、少しだけ力を込める。

 眠りながらも、離さない。


(……ずっと、こうなのか)


 その問いは、答えを持たないまま、夜の中に溶けていく。


 何も起きなかった。

 あまりにも静かな、最初の夜が過ぎていった。


 ただ——鏡の中の「違う向き」だけが、

 遅れて晴斗の胸に届いた。

「何も起きないこと」が、いちばん不自然な夜。


この章でやってるのは、事件じゃなくて“完成”。

配置・関係・距離が全部ぴったり噛み合ったとき、逆に逃げ場がなくなる。


次からは、その“完成した形”が少しずつ軋み始めるフェーズに入る。

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