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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第1章:あたたかな不協和音

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第14話:同居開始

「始まる」は、必ずしも大きな音を立てません。

静かに、自然に、“最初からそうだったみたいに”始まることもある。


――そんな一日の話です。

 引っ越し当日の朝は、

 思っていたよりもずっと慌ただしかった。

 玄関の前には見慣れないトラックが止まり、

 業者の人たちが段ボールを次々と運び込んでいく。


 普段は静かな家の中に、

 知らない声と足音が絶えず行き交い、

 それだけで空間の輪郭が少しずつ、

 変わっていくのが分かった。


 晴斗は邪魔にならないように端に立ちながら、

 その様子を眺めていた。

 手伝おうにも何をしていいのか分からず、

 ただ流れの中に取り残されたみたいに立っている。


「大丈夫よ、無理に動かなくていいからね」


 背後から声がする。

 振り返ると、恵子が柔らかく微笑んでいた。


「でも、なんかやったほうが」


「そう思ってくれるだけで十分。ありがとう」


 言いながら、自然な動きで段ボールの位置を調整する。

 業者の人にも丁寧に声をかけ、

 状況を見ながら的確に指示を出している。


 その様子は慌ただしいはずなのに、

 どこか落ち着いていて、

 場の空気をやわらかく整えていくようだった。


「そこ、こっちにお願いしてもいいですか。

 はい、大丈夫です、ありがとうございます」


 一つひとつの言葉が丁寧で、無理がない。

 誰に対しても同じ温度で接しているのが分かる。


 宗一が横から声をかける。


「すまないな、任せきりで」


「いいのよ。こういうの、嫌いじゃないから」


 軽く笑って答える。

 そのやり取りはどこか自然で、

 無理に作った関係には見えない。


 長く一緒にいる人同士の、

 落ち着いた距離感がそこにある。


「それに」


 恵子が少しだけ視線を和らげる。


「家のことは、ちゃんとやりたいの」


 その言葉は静かだったけれど、

 はっきりと芯が通っていた。


 そのとき、

 奥の部屋から小さな足音が聞こえてくる。


「お母さん」


 夕奈だった。


「ここ、これどこ置くの?」


 手に持っている小さな箱を見せながら、

 不安そうに聞く。


「それはね――」


 恵子はすぐにしゃがみ込み、

 夕奈と同じ目線に合わせる。


「夕奈の好きなところに置いていいのよ。

 でも、あとで一緒にちゃんと決めようか」


「うん」


 安心したように頷く。

 その頭を、恵子はやさしく撫でる。


「大丈夫、ゆっくりでいいからね」


 その声は、どこまでもやわらかい。


 少し離れたところで、

 夕莉が静かに様子を見ている。


「夕莉はどう?」


 恵子が声をかける。


「困ってることない?」


「……大丈夫」


 短く答える。


「そう。何かあったら、すぐ言ってね」


 無理に踏み込まない。

 ただ、いつでも手を差し伸べられる距離にいる。


 その距離の取り方が、とても自然だった。


 家の中に、少しずつ物が収まっていく。

 段ボールが減り、家具の位置が決まり、

 空間が“生活”として形を持ち始める。


 それは。


 確実に。


 この家が、変わっていく過程だった。


 昼を過ぎた頃には、大まかな配置は整っていた。

 まだ細かいところは残っているけれど、

 生活するには十分な状態になっている。


「お疲れさま」


 恵子が全員に声をかける。


「今日は無理しないで、できるところまででいいから」


 その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。


「晴斗くん」


 不意に名前を呼ばれる。


「ちょっといい?」


「うん」


 近づくと、恵子は少しだけ真剣な表情になる。


「これから、よろしくね」


 まっすぐに見てくる。


「急に家族が増えて、戸惑うこともあると思う。でもね」


 一度、言葉を選ぶように間を置く。


「あなたなら大丈夫だと思ってる」


 その言葉は、根拠を示すものじゃない。

 ただ、信じているという気持ちそのものだった。


「夕奈も、夕莉も」


 視線がやわらかく揺れる。


「あなたのこと、ちゃんと頼りにしてるから」


 その言い方は押しつけではなく、

 自然にそう思っているのが伝わる。


「……わかった」


 短く返す。

 それ以上、言葉は出てこない。


 でも。


 その言葉は、確かに残る。


 夕奈が、すぐ隣に来る。


 当たり前みたいに。


 袖を掴む。


 その動きが、もう迷いなくそこにある。


 夕莉は少しだけ距離を置いて、

 全体を見ている。


 宗一と恵子は並んで立って、

 何かを確認している。


 その並びが、自然に見える。


 まるで、最初からそうだったみたいに。


 そのとき。


 玄関のほうで、小さな物音がした気がした。


 誰かが来たような。


 でも、呼び鈴は鳴っていない。


 気のせいかと思い、誰も気に留めない。


 ただ。


 ほんの一瞬だけ。


 空気が、わずかに揺れた気がした。


 何も起きていない。

 何もおかしくない。

 全部、うまくいっている。


 そのはずなのに。


 どこかで。


 何かが、ぴったりと嵌まりすぎている気がした。


 居場所が、決まる。

 関係が、固定される。


 その中心に、夕奈がいる。


 誰もそれを疑わない。

 疑う理由がない。


 ただ一人。


 この場にいない誰かのことを、ふと思い出しかけて――


 すぐに、その考えは途切れた。


 思い出す必要が、なかったみたいに。

「居場所ができること」と「居場所が奪われること」は、時々とてもよく似た形をしています。

この回では“うまくいっているはずの完成形”が、逆に違和感の核として立ち上がり始めました。


ここから先は、“欠けているもの”ではなく“消されたもの”の気配が強くなっていきます。

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