第13話 引っ越し前夜
「まだ何も変わっていないはずなのに、もう戻れない気がする」――そんな夜の話です。
見慣れた場所が、ほんの少しだけ“違って見える”とき、物語は静かに次の段階へ進みます。
引っ越しの前日、
家の中はいつもより少しだけ落ち着かなかった。
大きく何かが変わっているわけではないのに、
あちこちに段ボールが置かれていて、
見慣れたはずの空間がわずかに形を変えている。
それだけで、空気が違って感じられた。
晴斗の部屋も例外じゃない。
棚の上のものが半分ほど片付けられていて、
空いたスペースがやけに目につく。
使っていないものをまとめただけのはずなのに、
そこだけぽっかりと穴が開いたみたいに見えた。
「これ、どうするん」
ほのかが箱の中を覗き込みながら聞く。
「それはそのままでいい」
「ほんまに? いらんのちゃう」
「使うって」
やり取りはいつも通りだ。
軽くて、特に意味もない会話。
でも、その「いつも通り」が、どこか遠く感じる。
ほのかは手を動かしながら、部屋の中を見回す。
何度も来ている場所だ。
むしろ、自分の家よりも長くいる気さえする。
どこに何があるかも、だいたい分かる。
だからこそ。
変化が、はっきり分かる。
物が少なくなっているだけじゃない。
そこにあったはずの「配置」が、少しずつ崩れている。
まだ途中のはずなのに、もう元には戻らない気がした。
「なあ」
手を止めずに、ほのかが言う。
「明日から、ほんまに来るんやんな」
「来るだろ」
「……そっか」
それ以上の言葉は続かない。
晴斗は段ボールを閉じながら、少しだけ手が止まる。
何かを考えているような、
でも考えることをやめたような、
中途半端な間。
「……なんか、急だよな」
ぽつりと言う。
「急やんな」
ほのかが返す。
それだけで終わる。
それ以上、どちらも続けない。
でも、その短いやり取りの中に、
二人ともが感じているものが、
言葉にならないまま漂っていた。
窓の外は、もう暗くなり始めている。
いつもならそろそろ帰る時間だ。
「そろそろ帰るわ」
ほのかが立ち上がる。
「ん」
晴斗はそれだけ返す。
止める様子はない。
それも、いつも通り。
玄関までの距離が、やけに長く感じる。
靴を履いて、ドアに手をかける。
そのとき。
窓ガラスに、部屋の中が映り込む。
暗くなりかけた外と重なって、内側の景色が薄く浮かび上がる。
晴斗と、ほのか。
二人の姿。
並んでいる。
それが、いつもの光景のはずだった。
なのに。
一瞬だけ。
その間に、もうひとつ影があるように見えた。
距離を埋めるみたいに。入り込むみたいに。
誰のものか、分からない。
でも——なぜか、そこに収まるべき形をしていた。
ほのかは目を逸らす。
確認する気にはならなかった。
見てしまったら、何かが決定的になる気がして。
「また明日な」
ドアを開けながら、いつもの調子で言う。
「ああ」
晴斗が返す。
外の空気が、少しだけ冷たい。
家に帰る。
自分の家に。
そのはずなのに。
振り返らなかった。
振り返れば——
また、あの影が見えそうな気がしたから。
今回は、「空間の変化」をテーマにした回でした。
物が減っただけ。
配置が変わっただけ。
それなのに、“もう元には戻らない”感覚ってありますよね。
この作品では、そういう日常の小さな違和感を、怪異と感情の両方に繋げて描いています。
特に最後の窓ガラスの場面は、「まだ存在していないはずのもの」が、先に“居場所だけ作っている”イメージで書いています。
夕奈なのか。
別の何かなのか。
あるいは、これから変わる関係そのものなのか。
ほのかはまだ答えを見ようとしていません。
でも、“見えてしまいそう”という感覚だけは、もう始まっているのだと思います。




