第23話「夜の渓谷」
夜の演習場は静かだった。
決勝のフィールドは渓谷地形だ。
学院の南側の丘陵を利用した天然の地形で、崖と隘路と橋が入り組んでいる。
夜間の立ち入りは禁止されていないが、わざわざ夜に来る人間はいない。
しかし……レイは来た。
月明かりの下で、渓谷の縁に立った。
下を見た。
暗い。
谷底は見えない。
だが風が吹き上げてくる。
谷底から上に向かって。
冷たい風だ。
夜の岩が冷えて、空気が谷に沿って流れている。
岩から空気へ。
そして上へ。
物理の単純さ。
だからこそ信じられる。
風がある。
昼はどうなる。
日が昇れば岩が温まる。
温まれば、風向きが変わるか。
あるいは西風が渓谷に入り込んで、谷筋に沿って加速するか。
計算はまだできない。
実際に走らないと分からない。
体で知る必要がある。
レイは渓谷の中に降りた。
道は二本あった。
正規の道と、崖に沿った細い道。
地形図には正規の道しか記されていない。
だが崖の縁に、人一人が通れる幅の獣道が見えた。
月明かりに照らされた岩棚。
踏み固められていない。
だからこそ、本物だ。
他の誰も知らない道。
地形図に載っていない道。
レイは獣道を歩いた。
足元を見なかった。
暗くて見えない。
代わりに、足の裏で地面を読んだ。
岩の傾き。
砂利の滑り。
一歩ごとに足場の情報が靴底を通して上がってくる。
足は目より正確だ。
目は騙す。
足は嘘をつかない。
ここを走れるか。
走れる。
ただし一人ずつだ。
二人が並ぶ幅はない。
前の人間が転べば後ろも止まる。
連鎖は避けられない。
だから先頭の選択は絶対だ。
道を一度も歩いていない人間を先頭にはできない。
今夜ここを歩いた自分だけが、この道を知っている。
つまりこの道を使用するならば、その先頭を進むべきは……
獣道を抜けた先に、Aチーム陣地の予想位置が見えた。
渓谷の東側の台地。
旗竿を立てるならあそこだろう。
構造は地形図の通りだった。
地形図の通りだが、地形図には描かれていないものが一つあった。
岩棚の終点から台地までの距離。
近い。
地形図上では等高線が詰まっていて遠く見える。
だが実際に立ってみると、走って十五秒。
十五秒。
その速さで全てが変わる。
レイはその数字を頭の中の地形図に書き加えた。
紙の上ではなく、頭の中に。
ペンではなく、足で。
体で。
振り返ると、崖の上にミラの影があった。
渓谷には降りてこなかった。
上から見ている。
レイが歩いた道を、上から確認している。
ミラの目は暗闇でも利く。
レイが見えなかったものを見ているかもしれない。
レイは渓谷を登った。
「ミラ。この獣道の途中に——」
「窪みが三つ。二つ目の窪みの手前に亀裂が入ってる。走ると危ない」
レイは頷いた。
ミラの目が補完した。
レイの足と、ミラの目。
二人で一本の道を覚えた。
一人では足りない。
二人だから完成する。
レイは渓谷の上に立ったまま、振り返った。
ミラがいる場所を見た。
暗がりの中に、ミラの輪郭がほとんど見えない。
だが存在を感じる。
「一つだけ聞いてもいいですか」
「……何?」
「決勝で、もし僕が崖から落ちそうになったら」
間があった。
風が渓谷を吹き抜けた。
冷たい風が二人の間を通り過ぎる。
「落とさない」
一語だった。
ミラの一語は誓いだった。
音の重さが違う。
レイは笑った。
暗闇の中で、誰にも見えない笑いだった。
「……ありがとうございます。それだけで、崖の道を走れます」
言い終わってから、もう一度、振り返った。
振り返らなくてもいいのに。
必要な返答は得ている。
だが振り返った。
暗がりの中のミラの輪郭を確認したくて。
いる。
ここにいる。
その事実を。
***
演習場からの帰り道。
寮に向かう石畳の道で、足音が聞こえた。
重い足音だった。
だが乱れていない。
規則的で、地面を押す力が均一だ。
力のある人間の歩き方。
角を曲がったところで、トーマが立っていた。
塀の柱のそばで、夜空を見ていた。
手には何も持っていない。
木剣も、地形図も、何も。
ただ立っていた。
レイが足を止めた。
「トーマさん。こんな時間に」
「眠れなかっただけだ」
トーマの声は平坦だった。
感情が見えない声。
だが感情がないのではなく、感情を見せる必要を感じていないだけだ。
トーマはそういう人間だった。
沈黙があった。
レイは待った。
トーマが話しかけてくることは珍しい。
だがトーマがここに立っているのは偶然ではない。
寮の出入口に近い場所だ。
レイが出かけていたことを知っていて、待っていた。
情報を待っていた。
「明日……俺はどこに立つ」
レイは一瞬だけ間を置いた。
配置はまだ発表していない。
明朝、試合前に全員に伝えるつもりだった。
だがトーマが聞いている。
トーマが、自分から聞いてきている。
顔合わせの日に「命令が合理的ならな」とだけ答えた男が。
「旗の前です」
トーマの目が動いた。
「守備か」
「はい。守備二名。トーマさんと、もう一名」
「二名?」
「二名です」
トーマはレイを見た。
暗がりの中で、レイの顔を見ていた。
二名。
旗の守備に二名。
残りの九名が攻撃に回るということだ。
通常は守備に四名。
半分だ。
「……何分だ」
レイはトーマの問いの速さに、小さな驚きを覚えた。
何分持てばいい。
それがトーマの最初の質問だった。
「無理だ」でも「理由は」でもなく、何分かと聞いた。
できるかできないかではなく、時間の長さを聞いた。
その質問が、全てを言っていた。
「七分」
七分。
その数字を出すまでに、三十二の変数を使った。
Aチーム攻撃隊の進軍速度。
隘路に到達するまでの時間。
隘路の幅。
一人が通過するのに必要な秒数。
攻撃隊の人数。
トーマの戦闘持続時間。
トーマの一対一の処理速度。
隘路の壁が与える地形的有利。
そしてレイ自身の迂回経路。
獣道の距離。
足で計った歩数。
岩棚の終点からAチーム陣地までの十五秒。
旗の奪取に必要な時間。
旗持ちの走力。
帰還経路の長さ。
想定される三十二の変数を掛け合わせて、レイの脳裏に最終的に残った数字が七分だった。
六分では足りない。
八分では頼みすぎる。
それ故、七分はトーマに渡せる最大の信頼で、レイに許される最小の時間だった。
トーマは黙った。
黙ったまま、右手を握り、開き、握った。
手首を回していた。
いつもの仕草だ。
木剣の柄を握る時の手の形を確認している。
無意識の訓練。
「……根拠は?」
「Aチームの攻撃隊の進軍速度と、僕たちの迂回経路の距離から逆算しました。七分あれば、旗に届きます」
「八人を七分間、二人で止めろと」
「渓谷の隘路を使えば、一度に来るのは二人か三人です。トーマさんなら」
「やる」
レイの言葉を、トーマが切った。
切り方に迷いがなかった。
レイは口を閉じた。
計算で説得するつもりだった。
渓谷の地形的優位。
隘路の幅。
トーマの戦闘技量と人数差の相殺比率。
全部、用意していた。
だがトーマは計算を聞かなかった。
「やる」と言った。
「……聞かないんですか。できるかどうか」
「聞いてどうする。できると分かっているから俺に頼んだんだろう」
レイは何も言えなかった。
「お前の計算が合理的かどうかは知らない。だが額面通りの仕事を振ってくる人間は、今までいなかった」
トーマの声は平坦だった。
だがその平坦さの底に、初めて色が見えた。
信頼という色。
額面通りの仕事。
レイが顔合わせの日に考えたことだ。
額面に見合う仕事を渡せば、この人は動く。
だから渡した。
七分という仕事を。
トーマはそれを、額面通りだと受け取った。
「一つだけ言っておく」
トーマが壁から肩を離した。
「お前が言うなら七分は絶対に持たせる。だがそれ以上を求めるなら――」
「七分で十分です」
「そうか」
トーマが歩き出した。
寮に向かって。
足音は相変わらず重く、均一だった。
レイはその背中を見送った。
見送りながら、心の中のトーマの名前の横にある数字を、もう一つ増やした。
成績表には載らない数字。
帳簿にも載らない数字。
だが、この数字がなければ明日の計算は成り立たない。
この数字が、信頼の重さなのだ。




