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第22話「灰猫の棚卸し」

 カップの底が乾いていた。

 紅茶の跡が陶器に薄い輪を残している。


 飲み干してから、どのくらい経ったろう。


 レイは目を閉じた。

 目を閉じて、音を聞いた。


 夜の灰猫商会の音。

 壁の向こうの路地。

 猫の足音。


 音を聞いている間、頭の中に地形図が広がった。

 明日の決勝の地形。


 渓谷。

 崖。

 橋。

 隘路。


 今朝までに寮の机で書き込んだ線を、全て思い出せる。

 線を引いた順番まで思い出せる。


 だがその線は、目で引いた線だ。

 紙の上で引いた線だ。

 足で確かめた線ではない。


 レイは目を開けた。


 壁の紙片を見た。

 そして、紙片ではなく、その向こう側を見た。


 壁の紙片は全て「灰猫商会の帳簿」に属するものだ。

 オッズと配置図と承認印と。


 だがレイには、もう一冊の帳簿がある。

 壁にも紙にも書いていない帳簿。

 頭の中にだけある帳簿。


 七人の名前が、頭の中に並んだ。


 ハンス。

 成績は中の下。


 だが守備から組み立てる発想を持つ。

 顔合わせの日、名簿を後衛から読み上げた。

 全員の顔を見てから決断する。


 前線に立った時、声は誰よりも通った。

 今日、準決勝でその声が止まった。


 橙の判定が出た。

 だが声は最後まで出た。


「今からレイの指示に従え」


 あの声が止まる前の三秒間に、ハンスはチーム全体の継戦能力を読み、移譲先を選び、覚悟を決めた。

 三秒間の仕事としてはレイの計算より速かった。


 指揮官の価値は、折れた後に分かる。

 折れた者が最後に何を渡したか。

 その価値で、その人間の全てが決まる。


 トーマ。

 全力で七分。


 顔合わせの日、扉の枠で肩を引いた男。

 力を持て余している人間の癖だった。


 だがこの三週間で、肩の引き方が変わった。

 変わったのではない。

 引かなくなった。


 壁から正確な距離を保っていた体が、距離の取り方を変え始めている。

 隘路に立たせれば止まる。


 止まるだけではない。

 止まる場所を選べるようになっている。


 七分。

 その七分の意味を、明日、帳簿に記録する。


 リーゼ。

 手順書の外で動ける。

 教わる前に自分で考える。


 伝令が届かない時、自分の足で判断できる人間。

 暗記力ではなく判断力。


 法学科一年の成績はそつなく纏まっているが、成績表の数字には「判断の速度」の欄がない。

 レイが伝令を出す前に動いた場面が二度ある。


 二度とも、レイの計算より正しかった。

 指示を待つのではなく、状況を読んで先に動く。

 それは協調性ではなく、自立だ。


 ルーカス。

 一回戦で脇腹を打たれた。


 前衛には戻れない。

 だが風を読む目は残っている。


 レイの耳と、ルーカスの目。

 二つ揃えば、渓谷の地形は透明になる。

 風向きが変わる瞬間を肌で捉える。


 煙幕のタイミングを決める時、レイはルーカスの目を使う。

 自分の耳が風の音を拾い、ルーカスの目が風の形を見る。

 損失から生まれる新しい力。


 フィリップ。

 前衛の中で最も静かだが、崩れない。


 一回戦で先頭を押し出されてもなお、足の位置を変えなかった。

 崩れないことの価値は、崩れた後にしか分からない。


 フィリップが崩れる日が来なかったこと。

 それは帳簿の「未発生損失」の欄に記録される。

 起きなかった災害の価値は、計算でしか分からない。


 ベアトリス。

 言葉の前に目を使う人間。


 顔合わせの日、ハンスの顔色を読んでいた癖が、戦場でも機能していた。

 小さな信号で意思を伝える。

 その能力は、特別だ。


 カール。

 戦場の在庫番。

 小さな仕事だが、小さな仕事が崩れた時に全体が崩れる。


 椅子の数を数えていた男が、煙幕筒の数を数えている。

 物を数える目は変わらない。


 変わったのは、数える対象が椅子から命に関わる物資に変わったことだ。

 そのプレッシャーの中で、ミスをしない。


 フィリップ、ベアトリス、カール。

 この三人の数字は小さい。

 小さいが、零ではない。


 零でない数字は、帳簿に載せる価値がある。

 小さな数字が、大きな数字の隙間を埋める。

 それが、帳簿の秘密だ。


 七人分の数字。

 全部、成績表には載らない数字だ。


 だがこの数字が、明日、地面の上で動く。

 壁の紙片に書ける数字は有限だ。


 でも頭の中の帳簿には、紙幅の制限がない。

 七人分の、成績表に載らない数字を、全部抱えたまま、渓谷に立つ。


 七人の名前を並べ終えた時、頭の奥にもう一つの変数が浮かんだ。


 右目。

 使えば、何かが削れ失われる感覚。


 使わずに済むなら使用はしない。

 だがもし必要な場合があるならば……


 レイはゆっくりと立ち上がると、そのまま店の出入り口へと歩みだす。


「旦那、どこへ?」


 それは天井から発せられた言葉。

 やはり彼女は寝ていなかったようだ。


「演習場に行ってきます。明日の地形を歩いておきたいので」

「夜に?」

「夜の方がいい。目で見ると地図の通りに見えてしまいます。暗ければ、足と耳で覚えられますから」


 夜間の演習場は施錠されていない。

 合同実習期間中、参加者には二十四時間のアクセスが認められている。


 規定の第九条第二項。

 レイはこの条項を初日に確認していた。


 ミラは何も言わなかった。

 言わないことが了承だった。

 だが天井から彼の側に降ってきた。


「一人で行けます」

「知ってる」


 ミラの声は短かった。

 「知っている」と「ついていく」は別の言葉だが、ミラの中では同じだった。


 知っていて、ついていく。

 それがミラの仕事だ。


 レイは反論しなかった。

 反論しても無駄だと計算で分かっていた。


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