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第21話「冷めた紅茶の夜」

 紅茶が冷めていた。

 ただし今夜は、それが不愉快ではなかった。


 準決勝が終わった夜。

 灰猫商会。


 壁の前に立っている。

 いつもの場所。

 背中に壁の冷たさはない。


 今夜は壁から一歩離れて立っていた。

 自分でも気づかないうちに。


 カップの中身はもう常温だった。

 ぬるいのではなく、冷めきっている。


 ぬるい紅茶は不愉快だが、冷めきった紅茶には不思議と苛立ちが湧かなかった。

 温度が中途半端でなくなると、飲み物は別のものになる。


 商会に来た最初の夜を思い出した。

 あの夜は紅茶がぬるかった。


 中途半端に。

 小さな不愉快だった。


 今夜は違う。

 冷めきっていることが、むしろ正直だった。


 壁のオッズ表。

 「Fチーム28倍」の紙片が、なくなっていた。


 代わりに別の紙片がある。

 「Fチーム 9.5倍」。


 エルマの字だった。

 レイが書いた数字ではない。

 数字の傾きが違う。


 エルマの鉛筆は右に三度傾く癖がある。

 レイの鉛筆は垂直だ。


 紙片の端が几帳面に揃えてある。

 鋲の打ち方もエルマの打ち方だ。

 四隅を均等に留める。


 レイは上の二箇所しか留めない。

 紙片の打ち方で、誰が貼ったか分かる。


 レイが不在の間も、エルマは壁の数字を更新していた。

 試合の経過を帳簿に記録し、オッズを書き直していた。

 帳簿番は帳簿番の仕事をしていた。


 紙片をめくった。

 裏に小さな字がある。


 エルマの字で「一回戦十二分。

 準決勝二十四分。


 戦闘継続比率については別紙」と書かれていた。

 別紙がどこにあるかは、探せばすぐ見つかるだろう。


 エルマの整理する帳簿は、必ず三手以内にたどり着く。

 それが帳簿番の設計だ。

 壁にそっと戻した。


 インク壺の蓋が、わずかにずれていた。

 エルマが最後に帳簿を閉じた時、蓋を完全に締めなかったのだろう。

 エルマにしては珍しい。


 几帳面な手が蓋を締め忘れるほど、何かに急いだか、あるいは何かに気を取られたか。

 レイはインク壺の蓋を直した。


 指先に微かなインクの匂い。

 灰猫商会の匂いだった。


 鉛筆の芯とインクと、古い紙と、ほんの少しの埃と。

 壁の焦げ跡はもう匂わない。


 新しい板に替わってから、焦げの匂いは消えた。

 代わりに松脂の匂いが残っている。


 新しく打たれた釘の金属臭。

 暖炉から立ち上る煤の冷めた臭い。


 灰猫商会。

 この場所にしかない匂いの層。


 帳簿を開いた。

 エルマの字が並んでいる。


 合同実習の収支がきちんと記録されていた。

 滞在費、装備品の消耗、煙幕筒の費用、防魔布の素材代。

 一行ずつ、正確に。


 数字の横にエルマが引いた罫線が、定規を使わずに真っ直ぐだった。

 帳簿の末尾に、エルマの注記があった。


 「旦那が帰ってきたら、Bチームの対戦収支を確認のこと。ジュリアス・ヴァルトシュタインは想定以上の可能性あり。要精査」。


 帳簿の数字から違和感を拾っていた。

 数字だけで戦場を読む人間がいる。

 レイが耳で聞く戦場を、エルマは数字で読んでいた。


 帳簿を閉じた。


 「Aチーム 1.1倍」の紙片は変わっていない。

 あの金の動きは変わらない。

 「勝たせるつもりがある」金。


 決勝の相手は、帳簿の外で勝ちを買っている相手だ。

 9.5倍と1.1倍。


 準決勝を勝ち上がっても、この差は縮まらない。

 差の理由が戦力ではなく資金にある限り、勝っても数字は動かない。


 帳簿の中では勝った。

 準決勝を勝ち上がった。


 Fチームの数字は28倍から9.5倍まで動いた。

 それは帳簿の中の勝利だ。


 だが帳簿の外には、まだ出ていない。

 帳簿の外に出るのは決勝ではなく、その先だ。


 動かない数字の前で、動かない紅茶を飲んだ。


 ジュリアスの顔が浮かんだ。

 今日、正面から来た。


 正面から来て、正面から読まれた。

 正面から読んで、正面から崩した。


 正直者の戦争。

 そう呼んだのは自分だ。


 正直に戦って、正直に勝った。

 正直に数字を並べて、数字で友人を倒した。


 ジュリアスは負けた後に笑った。

 笑えるのは、出し切ったからだ。


 出し切った人間の笑顔には、帳簿上の勝敗とは別の数字が書かれている。

 それは読めるが、帳簿には書けない。


 友人。

 その単語は帳簿のどの欄にも書けない。


 帳簿に載せたくない種類の言葉だ。

 だが帳簿に載せなくても、壁の紙片の余白に、その名前はもう滲んでいる。


 ジュリアス・ヴァルトシュタインの名前が。


 ジュリアスだけではない。

 ナディアの名前がある。

 エレオノーラの名前がある。

 フェリクスの名前が。


 顔合わせの部屋で帳簿上の数字として処理した人間が、数字の外側に顔を持ち始めている。

 数字の外側に顔を持つ人間が増えるほど、帳簿は正確になり、同時に帳簿の外が重くなる。

 正確さと重さは、同じ速度で増えていく。


 奥の階段から、鉛筆が紙を擦る音がした。

 エルマだ。


 二階で帳簿の整理をしている。

 寝ていなかったのか。

 あるいは、レイが帰ってきた気配で起きたか。


 音だけが降りてくる。

 エルマは降りてこない。

 降りてこないことが、エルマの気遣いだった。


 帳簿番は数字を書く。

 数字を書く音だけを渡して、言葉は渡さない。


 鉛筆の先が紙の繊維を擦る音。

 あの角度はエルマの削り方だ。

 芯の先を斜めに。


 今日も同じ角度で同じ音がする。

 変わらない音が、この場所が変わっていないことを伝えている。

 それが灰猫商会の夜だった。


 天井裏にも気配がある。

 ミラだ。


 眠っているのか、起きているのか。

 ミラの場合は区別がつかない。


 眠っていても起きていても、商会の中にいる気配だけが天井の向こうにある。

 合同実習が始まってからの三日間、ミラは学院にいた。

 商会にはいなかった。


 天井裏に気配がない夜が続いた。

 エルマが一人で帳簿を閉じた夜が三晩。


 今夜、三つの気配が戻っている。

 レイと、エルマと、ミラと。

 三人分の呼吸が灰猫商会の壁に収まっている。


 壁の紙片に目を戻した。

 「ファルニエ諸国同盟の存続年数」の白い紙片。


 数字はまだ入っていない。

 入れるべき数字が、まだ見えていない。


 その隣に、もう一枚。

 「条件付き」と書かれた白紙。


 条件の中身は書いていない。

 条件が何であるかすら、まだ分かっていない。

 分かっていないことが分かっているだけだ。


 合同実習の前は、白い紙片が遠かった。

 今は近い。

 近いというより、白紙の輪郭が見え始めている。


 数字はまだ書けない。

 だが紙の形は見えた。


 帳簿に載っている勝利は、帳簿の中で完結する。

 帳簿の外には、帳簿では勝てない場所がある。


 それが決勝だ。

 それが晩餐会だ。

 それが、この壁の白い紙片だ。


 ……晩餐会。

 まだ招待状は来ていない。

 合同実習の勝者の一部へ、招待状が送られるという。


 要するに貴族の唾付けだ。

 特に背景の無い、有力な学生はこの対象となりやすい。


 現状において、まだ勝利したわけではないし、本当に来るかどうかも分からない。

 だがもし来たら、あの食卓には、オッズでは測れない力学が動いている。


 金の力学。

 血の力学。


 三国の歴史が食卓の上で衝突する。

 帳簿で読めるのは、金の力学だけだ。


 血の力学を読むには、別の帳簿がいる。

 触れることも持つことも望まない帳簿が。


 ペンをインク壺に戻した。

 戻す音が静かだった。


 エルマの鉛筆の音と、自分のペンの音と、天井裏のミラの気配と。

 三つの音が灰猫商会の夜を満たしている。


 紅茶は冷めたままだった。

 淹れ直す気はなかった。


 明日は決勝だ。

 今夜は、冷めた紅茶でいい。


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