第20話「〇・一秒の賭け」
控え室の廊下。
カティア・ヴァルトシュタインが歩いていた。
弟の控え室に向かって。
角を曲がったところで、ジュリアスが壁に肩を預けて立っていた。
汗が乾き始めている。
負けた顔ではなかったが、考えている顔だった。
「ジュリアス」
「姉さん。見てた?」
「見ていたわ」
カティアは弟の顔を見た。
だが弟を見る目の奥で、弟を負かした人間を分析していた。
「伝令を屋上に切り替えさせること自体が罠だった。相手の最善手を読んで、最善手を選ばせて、最善手が裏目に出る構造を作る。数字の並べ方に癖がある、とアレクセイは言っていた」
ジュリアスは苦笑した。
「負けたばかりの弟に容赦ないな、姉さん」
「容赦がないのはあなたの相手の方よ」
カティアの目が廊下の先を見た。
見えない場所に、見るべきものがある。
灰猫のオッズの値付けと同じ設計思想だった。
相手が「合理的に」賭ける場所を先に読んで、その合理性の裏側にオッズを置く。
ジュリアスが合理的に選ぶ判断を先に読み、その判断の結果が自分に有利になるように盤面を組み替える。
オッズを立てるのと、戦場を設計するのは、同じ能力だ。
カティアはジュリアスの肩を叩いた。
姉の手で。
「休みなさい。午後はA対Cよ」
ジュリアスが行ってしまった後、カティアは廊下に一人残った。
「Fチームの副官。面白い子ね」
独り言だった。
廊下の壁に吸われて消える声量だった。
だがカティア・ヴァルトシュタインが「面白い」と言う時、それは好奇ではない。
査定だ。
帳簿の数字を読む目で、人間を読んでいる。
***
午後。
準決勝第二試合。
Aチーム対Cチーム。
ナディアは正面から戦った。
奇策はなかった。
伝令の遅延も、三方向の囮も使わなかった。
規律ある隊列。
秩序だった進軍。
全員が足並みを揃え、一歩ずつ前に進む。
正しく戦う。
ディートハルトは速かった。
ナディアの判断は正しい。
ディートハルトの判断も正しい。
だがディートハルトの正しさの方が速い。
同じ正解に先に辿り着く。
先に辿り着いた側が先に動き、後から辿り着いた側が後手に回る。
正しさの速度差。
それだけの差だった。
だが「それだけ」が埋まらなかった。
開始から十七分。
Cチーム旗が奪取された。
ナディアの敗北は静かだった。
崩壊はなかった。
最後まで隊列は維持されていた。
旗を守る守備が突破された時も、撤退の指示を出して後衛を回収した。
最後の一人が排除されるまで、秩序は崩れなかった。
来賓席から拍手があった。
勝者への拍手ではなかった。
負け方への敬意だ。
ナディアは市街地の出口で一度だけ振り返った。
空の旗竿を見た。
自分の旗があった場所を。
正面から戦って、正面から負けた。
恥はない。
一回戦は負けて残った。
準決勝は負けて消える。
違いは数字だけだ。
だが帳簿に残したいものは、数字ではなかった。
だが拳は、握っていた。
***
準決勝終了。
決勝の組み合わせが確定した。
Fチーム対Aチーム。
掲示板に貼り出された文字を、レイは演習場の端で見ていた。
見て、深く息を吸った。
吸った息の中に、わずかな震えがあった。
横に人の気配。
フェリクスだった。
いつもの軽い足取り。
いつの間にかレイの横にいた。
「決勝だね、レイ。やるじゃないか」
「……ありがとうございます」
「一つだけ」
フェリクスの声の温度が変わった。
軽さの底にある精密さが、表に出た。
「今日のA対Cの試合で、来賓席の後方から、また微弱な探査魔法の反応があった。判定用じゃない残響。さっきと同じ種類の」
レイの目が動いた。
「場所は」
「試合場の西側。森の方角。来賓席の後方ではない。別の方角だよ」
森。
新しい方角。
レイは掲示板から目を離した。
フェリクスを見た。
フェリクスの目は軽かった。
だが軽さの底に、重さの輪郭が透けていた。
渡す情報の価値を知っている目だった。
知っていて、軽く渡す。
「フェリクスさん。ありがとうございます」
「人質は情報を持っているだけで、使い道は持っていない。使い道は君の方が上手だ」
フェリクスが去っていった。
軽い足取りで。
軽い足取りが廊下の角を曲がって消えた後も、渡された情報の重さだけが残っていた。
***
夕暮れ。
レイは演習場を歩いていた。
影が長い。
自分の影が石畳の上を這っている。
灰猫商会に向かっていた。
エルマに報告し、ミラに、もう一つの戦いを頼まなければならない。
歩きながら、考えている。
明日。
十一人で十二人と戦う。
Aチームはこのに度の戦いで、負傷離脱判定を出すことはなかった。
そして盤の上にはディートハルトがいる。
更に盤の外には、射線が待っている。
フェリクスが告げた「森」。
ミラが見つけた「来賓席の後方」。
射線が増えている。
今日の準決勝で、自分は前に出た。
後方にいた設計者が、前に出て、自分で旗を掴んだ。
自分の肩に黄の判定をもらいながら。
ジュリアスに聞かれた。
計算か、と。
計算だと答えた。
即答した。
計算だった。
本当に。
だが計算の外にも、何かがあった。
ハンスが倒れた瞬間に体が動いた。
後方指揮を捨てて前に出た。
その判断は計算だったか。
計算だった。
計算が、追いかけてきた。
体が先に動いて、計算が後から追いついた。
それは計算とは呼ばないかもしれない。
だがレイはそれを計算と呼ぶことにした。
呼ばなければ、怖くなるから。
***
灰猫商会に向かう途中、寮の入口でマリエルとすれ違った。
「レイさん」
「マリエルさん」
「明日も頑張って!」
「……ありがとうございます」
マリエルは手を振って去っていった。
灰猫商会に着く前に、一つだけ済ませておくことがあった。
レイは灰猫商会の裏口から入り、奥の部屋で帳簿を開いた。
決勝の作戦ではない。
灰猫商会の帳簿だ。
明日の決勝でレイが万が一重傷を負えば、灰猫商会のオッズメイカーが不在になる。
一日ならエルマが回せる。
二日でも持つ。
だが一週間の不在は、帳簿の精度を壊す。
精度が落ちれば信用が落ちる。
信用が落ちれば、客が離れる。
離れた客は戻らない。
だから帳簿を書いていた。
一週間分の予測オッズを、あらかじめ。
港湾の船便予測。
三国合議の議決予想。
季節商品の相場変動。
倉庫番号ごとの入出荷遅延率。
一つずつ、数字を埋めていく。
自分がいなくても帳簿が回るように。
書き終えた。
七枚。
日付だけが空白で、数字が全て埋まった七枚の紙を、帳簿の裏表紙に挟んだ。
エルマは知らない。
ミラも知らない。
誰にも言わない。
言えば心配される。
心配されれば、判断が鈍る。
心配されることで自分の覚悟が揺らぐのが、一番怖かった。
七枚の紙は保険ではない。
帳簿番として残す、最後の仕事だ。
最後になるかどうかは分からない。
だが最後になってもいいように書いた。
それが帳簿番の矜持だった。
帳簿を閉じた。
裏表紙の膨らみは外からは分からない。
エルマが開いても、必要になるまでは気づかない。
必要にならなければ、そのまま紙はそこで眠る。
使われなければ……それでいい。
改めて表に周り、灰猫商会の扉が見える。
壁には紙片が並んでいるはずだ。
「Fチーム9.5倍」。
「ファルニエ諸国同盟の存続年数」。
そして白い紙片。
この中にはエルマがいて、ミラが窓際にいて、紅茶がぬるい。
扉を開ける前に、一度だけ振り返った。
演習場の方角。
明日の決勝が行われる場所の方角。
盤の上に立つ。
あの時、ミラにそう言った。
僕は盤の上に立つ。
あの時はまだ、立つことの重さを知らなかった。
今日、知った。
盤の上に立つということは、仲間が倒れる場所に自分もいるということだ。
自分が倒れれば全員が崩れる場所に、自分の足で立つということだ。
扉を開けた。
エルマが壁の前にいた。
ペンを持って。
帳簿を開いて。
ミラが窓際にいた。
短刀を拭いていた。
遅い拭き方だった。
考えている。
レイは扉を閉めた。
「ただいま帰りました」
エルマがペンを止めた。
ミラが短刀を拭く手を止めた。
「……勝ちました」
それだけ言った。
エルマの手がペンを置いた。
帳簿を閉じかけて、閉じなかった。
帳簿を開いたまま、レイの顔を見た。
勝った人間の顔ではなかった。
まだ終わっていない人間の顔だった。
「明日、決勝です。相手はAチーム。ディートハルト・フォン・リヒトフェルデン」
ミラの手が短刀の柄に触れた。
「ハンスさんは出られません。十一人です」
エルマが紅茶を淹れた。
カップを置く音だけが響いた。
レイは壁を見た。
紙片が並んでいる。
「エルマさん。明日は設計の外に出ます」
エルマのカップを置く手が、ほんの一瞬だけ止まった。
止まって。
戻った。
「……旦那。紅茶、冷めますよ」
それだけだった。
それだけが、今夜のこの部屋の全てだった。
レイは紅茶に手を伸ばした。
合同実習三日目。
準決勝終了。
決勝まで、あと一日。
***
準決勝の夜、研究棟に向かった。
ジュリアスを数字にして勝った夜だった。
夜の研究棟は薄暗い。
窓枠の上にまで積まれた文献が、廊下のランプの光すら半分遮っていた。
「入れ」
扉を叩くと短い声が返った。
エルヴィンは机の上の文献に目を落としたまま、レイの方を見なかった。
「本をお返しに来ました」
机の端に本を置いた。
エルヴィンは手を止めなかった。
レイが踵を返そうとした時、背後から声がかかった。
「合同実習、残っているそうだな」
足を止めた。
「……はい」
「一回戦は十二分だったと聞いた」
レイは振り返らなかった。
エルヴィンの声には温度がない。
事実を確認しているだけだ。
だがその事実の選び方に、意図がある。
十二分という数字を知っているということは、見ていたか、聞いたかのどちらかだ。
エルヴィンが合同実習を見に行く人間とは思えない。
誰かに聞いた。
聞いたということは、気にしている。
「目は使うつもりか?」
壁の書架に手をかけたまま、何も言えない時間があった。
「使わないつもりでした……ですが、明日は分かりません」
エルヴィンのペンが止まった。
文献から目を上げ、初めてレイを見た。
「つもり、か」
それだけだった。
追及もしなければ、言葉を重ねることもなかった。
「次に来る時は、結果を聞かせたまえ。勝敗ではない、目を使ったか、使わなかったかをな」
レイは頭を下げた。
部屋を出る直前、エルヴィンが背中に向けてもう一言だけ言った。
「あの時……サクラも同じことを言っていた。使わないつもりだと」
レイの足が止まった。
「つもりで済んだ人間を、私は知らない」
扉が閉まった。
研究棟の薄暗い廊下を歩いた。
足音だけが響いていた。
母の名前が出るのは二度目だった。
一度目は制限文書の閲覧を許可された時。
あの時もエルヴィンは最小限の言葉しか使わなかった。
だが今日の最後の一文は、警告だった。
使わないつもりで済んだ人間を、私は知らない。
つまり、使う状況が来ると言っている。
廊下の窓から外を見た。
演習場の方角。
明日の決勝が待っている。
目を使えば何が見える。
魔術構造式の軌道。
来賓席の後方から放たれるかもしれない、あの射線が。
使わないつもりだ。
まだ、つもりの段階だ。
母もまた、同じ「つもり」でここを歩いたのだろうか。
同じ窓から、同じ演習場を見たのだろうか。
そして、「つもり」が崩れた日、何を見たのだろうか。
廊下の先は暗かった。
足音を聞いているのは自分だけだった。
母の足音は、もう聞こえない。
腰の刀に手が触れた。
母がこの刀を持って同じ廊下を歩いた日があったのだろうか。
この刀で何を見て、何を斬り、何を斬らなかったのか。
エルヴィンは知っている。
だが語らない。
語らないのは、語る時が来ていないからなのだろう。
***
Bチームの控え室。
ジュリアスはリンゴを齧っていた。
二個目だった。
一個目は試合前に齧った。
負けた。
分かっている。
分かっている上で、リンゴを齧っている。
齧っている間は考えなくていい。
甘い。
前のリンゴより甘い。
負けた後のリンゴの方が甘いのは、どういう理屈だ。
理屈はない。
リンゴに理屈はない。
十二分の膠着の後、レイが動いた。
動いたのは分かった。
分かっていて、止められなかった。
伝令が遅れた。
足場が三箇所、微妙に悪かった。
走るたびに靴が滑った。
あれは偶然ではない。
最初からそこに仕込んであった。
五分間の膠着。
あの五分間で、ジュリアスは四手動かした。
四手のうち三手が空振った。
空振ったのは読み負けたからではない。
読まれていたのでもない。
レイは読ませたのだ。
読ませて、四手のうち三手を空振りに変えた。
あの男は嘘をつく時に敬語が上がる。
だが今日の試合で、嘘は一つもなかった。
正面から来ると言った。
正面から来た。
正直に戦うと言った。
正直に戦った。
正直であること自体を疑わせた。
嘘のない戦いに負けた。
これはきれいな負け方だ。
リンゴの芯を窓から投げた。
二個目の芯は、一個目より遠くに飛んだ。
「次は負けない」とは思わなかった。
代わりに思ったのは、「次も楽しいだろうな」だった。
友人に負けるのは、敵に負けるより悔しい。
悔しいのに、嫌ではない。
嫌ではないことが、やはり少しだけ申し訳なかった。




