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第19話「三つの指示」

 レイは壁に手をついていた。

 肩の判定徽章が黄色く光っている。


 ジュリアスの一撃を受けた。

 旗を投げた直後だった。


 旗を投げることを選び、防御を捨てた。


 いや、捨てたのではない。

 旗を投げる方が先だと計算した上で、受けた。


 受ける前に旗が手を離れることを確認してから、体を差し出した。

 計算通りだった。


 だが肩が痛かった。

 ジュリアスの一撃は重い。

 模擬剣でも、痛い。


 レイは壁から手を離した。


 もう一本の煙幕筒を取り出した。最後の一本。

 Bチーム陣地の北側、東に展開していたBチームの攻撃隊が戻ってくる経路に向けて、投げた。


 煙幕が路地に広がった。

 壁と壁の間で濃縮された白煙が、帰還する攻撃隊の足を止める。


 突破できないほどではない。

 だが数秒の遅延になる。


 旗を持った前衛が南に走っている間に、追撃を数秒だけ遅らせる。


 数秒。

 この試合はずっと、数秒の積み重ねだった。


***


 審判の旗信号が上がった。

 Bチーム旗、Fチーム自陣に到達。


 開始から二十四分。

 準決勝第一試合。

 Fチームの勝利。


 号笛が鳴った。

 風のない日の号笛は、市街地の路地を伝って会場の隅々まで届いた。


 来賓席が、一瞬だけ静まった。

 それから、どよめきに変わった。


 28倍のチームが、指揮官が橙で落ちた後に指揮を引き継いだ副官が、突然戦い方を丸ごと変えて、ジュリアス・ヴァルトシュタインを破った。


***


 観客の丘。

 ナディアは立ったままだった。

 試合が終わっても座れなかった。


 見ていた。

 レイが後方から前に出る瞬間を。

 壁から背を離す瞬間を。

 屋上を走る灰色の髪を。


 市街地の建物に遮られて細部は見えなかった。

 だが見えなくても、分かった。


 あの男が、前に出た。


 後方指揮位置にいた参謀が、自分の体を使って旗を取りに行った。

 設計図を書く手で、旗を握った。


 ナディアの最初の観察では、レイは一度も前に出なかった。

 準決勝の前半も後方にいた。

 音で戦場を読み、伝令で全体を動かしていた。


 それが変わった。

 指揮官が落ちた瞬間に。


 前衛が三方向に散った。

 無関係に見える数字を散らして、読む者の目を誘導する。


 ジュリアスが「正面だ」と判断した瞬間に、本当の数字は別の場所にある。

 灰猫商会のオッズの並べ方と同じ設計だ。


 あの戦い方は、数字で設計されている。

 その思考が浮かんだ時、ナディアの中で何かが軋んだ。


 恐怖ではない。

 苛立ちでもない。

 名前がつかない感覚。


 同じものを見て、違う使い方をしている人間がいる。


 ナディアの数字は正しさのためにある。

 あの男の数字は勝つためにある。


 同じ道具を、まるで違う方向に振るっている。

 正しさと勝利は同じものだと思っていた。

 だが今、その等号が揺らいでいた。


 だが、どちらの振り方が正しいかは、今の自分には分からなかった。

 分からないことが、一番苛立った。


 知りたい。

 知ってから判断したい。


 だが判断するための時間は、試合によって奪われていた。

 明日の決勝で、全てが決まる。


 その前に、自分は何も知ることができない。

 その無力さが、怖かった。


 Fチームが勝った試合を思い出す。

 煙幕と靄の十二分。

 市街地の二十四分。


 二つの勝ち方はまるで違った。

 一回戦は手品だった。

 準決勝は、剣だった。


 手品は嫌いだ。

 正しくないから。


 だが準決勝のレイは、正しく戦っていた。

 自分の体で走り、自分の肩で打たれ、自分の手で旗を掴んだ。


 正攻法ではない。

 だが、誠実ではあった。


 正攻法と誠実さは違うのか。

 自分はずっと同じものだと思っていた。


 だがあの男は正しくない方法で、誠実に戦っていた。

 その矛盾が、苛立ちの正体だった。


***


 控え室。


 ジュリアスが先に入っていた。

 壁に背をつけて立っている。


 模擬剣はベンチに置かれていた。

 汗が首筋を伝っている。


 レイが入ってきた。

 右肩の判定徽章が黄色く光っていた。


 二人の目が合った。

 沈黙が三秒あった。


 市街地の戦闘音はもう聞こえない。

 号笛の残響が壁に微かに残っているだけだ。


 ジュリアスが笑った。

 試合中に見せた、あの晴れやかな笑い。


「屋上に伝令を回した瞬間に、全部持っていかれたんだな」


 レイは何も言わなかった。


「路地の罠は最初の囮だった。俺が最善手を選ぶことを読んで、最善手を選ばせて、最善手が裏目に出る構造を作った。お前、本当に性格が悪いな」

「……よく言われます」


 レイの声は穏やかだった。

 穏やかだが、乾いていた。


 紅茶を淹れ損ねた時の声だ。

 ジュリアスはその声の温度を知っていた。


「最後、自分で走っただろう。前に出て、自分で旗を取った」

「……はい」


「あれは計算か。それとも——」

「計算です」


 即答だった。

 即答が速すぎることを、ジュリアスは見逃さなかった。


 レイは嘘をつく時、一段敬語が上がる。

 だが即答する時は、考える時間を自分に与えないようにしている。

 考えれば、別の答えが出てしまうから。


 ジュリアスは何も言わなかった。

 その代わりに、一つだけ言った。


「ハンスさんのこと、背負いすぎるなよ」


 レイの手がポケットの中で動いた。

 ジュリアスのハンカチを握っていた。


 あの時に借りたまま返していない。

 返すつもりはある。

 返す機会がないのではなく、返すことが何かを終わらせる気がして。


 レイは答えなかった。

 ジュリアスは答えを待たなかった。

 控え室から出ていく時に、レイの肩を一度叩いた。

 黄色く光っている方ではなく、反対の肩を。


 敵の手ではなく。

 友人の手だった。


***


 控え室にレイが一人で残った。

 リーゼが報告に来た。


「ハンスさんの状態は安定しています。橙判定は解除されませんが、応急処置は済みました。決勝には出られません」

「分かっています」


 レイは壁を見ていた。

 何もない壁だった。

 灰猫のオッズ表も、白い紙片もない。


「リーゼさん。一つ聞いていいですか」

「はい」

「試合の後半。Bチームの攻撃隊が東の路地に近づいた時、トーマさんへの伝令経路を西回りに変えましたね」


 リーゼの表情が硬くなった。


「……はい。手順書にはありませんでした。東の路地がBチームの攻撃隊と重なっていたので、独断で変えました」

「伝令経路の変更は正しかったです」


 リーゼの声が止まった。


「手順書に書いてなかったので、自分で考えました」

「それが一番大事なことです」


 レイの声は穏やかだった。

 穏やかで、はっきりしていた。


 リーゼは一瞬だけ目を伏せた。

 顔を上げて、一礼した。


 リーゼが出ていく後ろ姿を見送りながら、レイはリーゼの名前の横に、心の中で数字を一つ加えた。


 帳簿の外にある数字だ。

 顔合わせの日から、少しずつ増え続けている。


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