第12話「点が線になった夜」
夜の灰猫商会。
灯りの下で、壁に並んだ紙片がかすかな影を落としている。
その前に立ち、今日入った情報がないことを確かめた。
昨日までの紙片が全てだ。
Aチームの分析、探査魔法、ミラの報告、金の流れ……そして今朝エルマが書いた9.5倍。
紙片を見ていたが、何も貼らなかった。
音もなく扉が開いた。
ミラだった。
黒い外套を着ている。
昼間の一般見学者の格好ではなく、夜の格好で短刀が腰にある。
「ミラ。報告ですか」
ミラは頷き、控え室の椅子に座った。
座ること自体が珍しい。
立ったまま報告する方が多いミラが座った。
つまり報告が短くないか、立ったままでは聞けない中身だということだ。
「来賓席の後ろ、三人。動きが変わった」
「どう変わりましたか」
「荷物を持ち込んだ」
レイの手が止まった。
「……荷物」
「長さは腕ほど。布に包まれている。杖か、何か」
杖。
あるいは杖に見えるもの。
あの三人が外部の人間であることはもう確かだ。
探査魔法を飛ばしていた人間と同一か、協力関係にある。
武器が入った。
使うかどうかはまだ分からない。
脅しかもしれないし、保険かもしれない。
「持ち込んだ場所は」
「運営用倉庫の裏。昨日の印のそば。壁の隙間に隠した」
昨日ミラが見つけた印、射線を確保するための立ち位置。
その近くに杖を隠した。
つまり立ち位置と武器が揃い、あとは使うタイミングだけだ。
「三人とも持ち込みましたか」
「一人だけ。残りの二人は見張り。一人が運び、二人が周囲を監視していた。手慣れている」
レイは壁のAチーム分析の紙片を見た。
来賓席後方、探査魔法、射線の確保、杖の持ち込み。
フェリクスの情報と合わせれば、外部から対戦相手を妨害する構図だ。
点が線になった。
線が一つの図形を描いている。
「ミラ。準決勝では、あの三人はまだ動きません」
「……理由は」
「彼らが排除したいのはAチームの決勝の相手です。準決勝の段階では、決勝にどのチームが上がるか確定していない。Fチームかもしれないし、Bチームかもしれない。どちらが上がっても同じ手段で妨害するなら、準決勝で動く必要はない」
ミラは黙っていた。
理解している。
ミラの沈黙は理解の沈黙だ。
「逆に言えば、準決勝が終わった瞬間に、彼らは動き始めます。決勝の相手が確定するからです。確定してから決勝までの間に、準備を完了させる」
「……決勝は明後日」
「はい。もし僕たちが準決勝に勝てば、明日の夜から明後日の朝にかけて、あの三人が最終準備に入る。その間に——」
レイはミラの目を見た。
「あの三人が何をするにせよ、道具を使えなくしてください。杖を回収する。立ち位置を使えなくする。動けない状況を作れば、代替手段を用意する時間がない」
ミラの手が短刀の柄に触れた。
「排除?」
「排除ではありません。排除すれば別の人間が来る。道具を奪う」
一呼吸。
「戦うのは最後の手段です。道具を奪えば、腕のある魔術師も素手の人間になる」
「立ち位置の無力化と杖の回収」
「はい。戦うのではなく、道具を奪う。ミラ、無理はしないでください。三人は手慣れていると言いましたね。一人で三人は——」
「やる」
短い言葉だった。
ミラの言葉はいつも短いが、いつもと違うものがあった。
短刀の柄を握る指に力が入っていた。
「……ミラ」
「旦那は盤の上にいる。盤の外はあたしの仕事。そう言ったのは旦那」
レイは言葉に詰まった。
自分が言った言葉を返されている。
その通りだ。
盤の外はミラにしか頼めないと、自分が言った。
言った以上、信じなければならない。
「……はい。お願いします」
ミラは頷き、短刀の柄から手を離した。
立ち上がり、窓際のいつもの場所に移動した。
レイは紅茶を淹れ、温度を確かめた。
ちょうどよかった。
カップを一つだけ出した。
いつも通りに迷ってから一つにした。
もう一つ出すか。
ミラのための。
だが出せなかった。
その一杯が、二人の間に線を引く気がしたから。
自分が絶対に譲れない線。
友人であること以上に、頼りになる誰かでありたいという欲望が、もう一つのカップを出させなかった。
ミラが窓際で動かず、短刀を拭いている。
今夜の拭き方は遅かった。
昨夜は速かった。
速い時は緊張し、遅い時は考えている。
遅い拭き方は、短刀の刃を一本ずつ確認する拭き方だ。
刃研ぎをするのではなく、明日の戦いに向けて刃の状態を確認している。
短刀が相手をどう斬るか、その角度と深さを指の触覚で読み取っている。
「ミラ」
「……何」
「明日、僕は準決勝で、ジュリアスと戦います」
ミラは短刀を拭く手を止めなかった。
「知っている人間と戦うのは、初めてです」
ミラの手が止まった。
布を刃から離さないまま、止まっていた。
「……友達」
一語だった。
疑問でも確認でもなく、ただその一語がそこにあった。
ミラには友達という概念がどう見えているのか、レイには分からない。
だがその一語に否定の色はなかった。
「友人です。手口を知っている相手に、正直に戦わなければならない。正直に戦えば、隠しているものが透ける。透ければ——」
レイは紅茶のカップを見た。
細い湯気が灯りの中をのぼっている。
「少し、怖いですね」
ミラは何も言わず、短刀を鞘に戻した。
それから窓際を離れ、レイの横を通り過ぎる時に一瞬だけ足が止まった。
「旦那は怖い時、声が静かになる」
レイは顔を上げた。
「でも、静かな時の旦那は、逃げない」
それだけ言って、控え室の方に歩いていった。
ミラにしてはいつもより饒舌な夜だった。
レイは一人になった。
ミラに見抜かれている。
声の温度で感情を読む人間がこの部屋にいることを、改めて思い出した。
だが今夜の言葉は読むだけではなかった。
ミラは読んだ上で何かを返した。
ミラが自分から言葉を足すことは、滅多にない。
壁を見た。
紙片が並んでいる。
「Fチーム9.5倍」
昨日までの28倍が線で消され、新しい数字に変わっている。
その横。
「ファルニエ諸国同盟の存続年数」
白い紙片。
数字はまだ入っていない。
二枚の紙片を見比べた。
片方は数字が動いた。
28から9.5に。
試合の結果で数字は変わり、条件が変われば確率も変わる。
もう片方は動いていない。
白いままだ。
明日はジュリアスと戦う。
友人と。
手口ではなく、自分自身で。
ジュリアスは昨日、「お前自身と戦いたい」と言った。
エルマは今朝、「旦那はあの人のこと、ちゃんと友達だと思ってるんですね」と言った。
ミラは今夜、「友達」と一語だけ言い、そして、「静かな時の旦那は、逃げない」と言った。
全員が同じ場所を見ている。
レイ・ラマリンという人間の、帳簿に載らない部分を。
紅茶を飲み干した。
冷めていたが、不愉快ではなかった。
壁に一枚の紙片を追加した。
何も書かない白い紙片を一枚、準決勝の横に。
空白の紙は、まだ何にでもなれる。
勝つかもしれない。
負けるかもしれない。
だが明日の自分は、手口の後ろに隠れない。
オッズメイカーが自分自身の勝率を計算する時、その数字は信じるためにではなく、裏切るために書くものだ。
灯りを落とした。
暗闇の中で壁の紙片が見えなくなった。
だが一枚だけ、白い紙片が暗闇の中でもほんの少しだけ光を返していた。




