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第13話「濡れた石畳」

 石畳が濡れていた。

 昨夜の露が、靴底を通して足に冷たかった。


 表面は光を反射し、風のない夜の冷気をそのまま保ったまま、明朝を迎えていた。

 靴底の皮が湿った石に触れるたびに、細かい摩擦音が足から脚へと伝わってくる。


 古い石畳に苔が生えている場所では、滑りやすさが倍増する。

 濡れた石の隙間に溜まった水が、靴を踏み込むたびに音を立てた。


 わずかな水音。

 それは雨音ではなく、液体が固体を満たす音だ。


 合同実習三日目。

 準決勝の朝。


 風はない。

 昨日まで吹いていた南東の風が完全に止んでいる。


 上空の雲も動きが遅く、北から南へゆっくり、だが確実に移動している。

 その遅さが、かえって時間を長く感じさせた。

 動かない空気の中では、全ての音が増幅される。


 反響する。

 重ねられる。


 市街地の建物がそれをさらに複雑に変調させ、どの音がどこから来ているのか判別が困難になる。


 市街地模擬区画の路地は乾いていれば足音が響き、濡れていれば滑る。

 滑ることは靴の裏が石の摩擦を失う瞬間であり、その瞬間に人間の体は重心を失う。

 重心を失うことは一瞬だが、この地形では一瞬が試合を決する。


 風のない日は煙幕が使えない。

 拡散せず、建物に阻まれた煙は路地に溜まるだけで視界を奪えない。


 だが風のない日は、音が遠くまで届く。

 音が届くということは、耳で戦場全体を読めるということだ。


 レイは目を閉じた。

 演習場のざわめきが耳に流れ込んでくる。


 観客席の話し声。

 審判団の打ち合わせ。

 遠くで木剣を素振りする音。


 石畳を踏む靴底の種類まで、聞こえる気がした。

 目を開けた。


 今日はこの耳が武器になる。


***


 市街地模擬区画は、演習場の北側に設えられた人工の街だった。


 二階建ての建物が並び、路地が格子状に入り組んでいる。

 中央には広場があり、広場から四方に大通りが伸びる。

 視界は常に建物に遮られ、二十歩先が見えない。


 一回戦の森林地形とは何もかもが違い、開けた場所がない。

 煙幕は壁に阻まれて拡散せず、ミストは路地に溜まる。


 ダミー人形を置いても建物の陰で見えない。

 つまり、一回戦で使った手の大半が封じられている。


 Fチームの陣地は市街地の南端、Bチームは北端。

 その間に百歩以上の路地と建物が横たわっている。


 準備区画で、ハンスが前衛四名に最後の指示を出していた。

 レイは横で地形図を見ていた。


 もう見る必要はなく、全部頭に入っている。

 だが手が地形図を求めていた。


 指先が路地の線をなぞるたびに、石畳の感触が想像の中に立ち上がる。


「レイ。確認だ」


 ハンスの声が来た。


「攻撃七。突入班は俺を含めて四名、大通りから中央広場に向かう。側面支援三名が西側の路地を並走。守備三名。トーマが旗守備の要。リーゼが伝令。お前は後方指揮位置」

「はい。ただし——」

「状況次第で位置を動かす。要所まで出る。分かってる」


 ハンスの口調に迷いがなかった。

 昨日の作戦会議で決めたことをそのまま飲み込み、自分の言葉に変えている。


「もう一つ。今日は十五分制限はつけません」

 ハンスが目を上げた。


「一回戦は情報を隠すために速度を選びました。今日は逆です。相手が僕の手口をある程度知っている以上、速度で押し切ろうとすれば読まれます。じっくり戦う。相手の判断が遅れる瞬間を、一つずつ作っていく」

「時間がかかるということか」

「かかります。ですが、焦る方が負けます。相手がジュリアスなら、焦った側が先に崩れる」


 ハンスは頷いた。

 それから、少しだけ声を低くした。


「レイ。一つ聞いていいか」

「どうぞ」

「俺が落ちたら、どうなる」


 レイの手が地形図の上で止まったが、表情は変わらなかった。


「計画の第二段階に入ります」

「第二段階? 聞いてないぞ」

「ハンスさんが落ちなければ存在しない段階なので、説明する必要がありませんでした」


 ハンスは数秒間レイの横顔を見てから笑った。

 苦笑ではなく、信頼の笑いだった。


「……お前は本当に、先のことばかり見てるな」

「僕は後方にいますから。先のことしか見るものがないんです」


 ハンスは何か言いかけてやめ、代わりに軽くレイの肩を叩いた。

 叩いた手には、前に進む人間の体温があった。


 リーゼが横から声をかけた。


「伝令経路、最終確認しました。主経路は中央大通り沿い。副経路は西の路地を経由。予備経路は——」

「東側の裏路地です。昨日追加した分」

「はい。ただし東の裏路地は露で滑りやすくなっています。伝令の移動速度が約五秒ほど落ちるかもしれません」


 五秒。

 レイはその数字を頭の中に入れ、五秒の遅延を計算に組み込んだ。


「了解しました。伝令の際は足元に注意してください……リーゼさん」

「はい」

「手順書は覚えていますね」


 リーゼの目が一瞬だけ鋭くなった。

 指揮継承の手順書。

 使われないことを祈る、と言って渡した紙だ。


「覚えています」

「使わずに済むことを祈っていますが、祈りはオッズに影響しません」


 リーゼは何も言わなかったが、背筋が一段伸びた。


 トーマが旗守備の位置に向かう途中、レイの横を通り過ぎた。

 足を止めなかったが、通り過ぎる時に短く言った。


「路地は任せろ」

 それだけだった。


 レイは頷いた。

 頷くだけで十分だった。


***


 観客の丘。

 風のない空の下に、観客たちの声だけが低く漂っている。


 ナディアはCチームの副官と並んで座っていた。

 午後のA対Cの準決勝を控え、その前にF対Bの試合を見る。


 情報収集のためだ。

 もしAチームに勝てれば、決勝の相手はFかBのどちらかになる。

 もっともAに勝てる確率は低いと正直に見積もっていたが、見積もりと覚悟は別のものだ。


「負けたチームが準決勝に座ってるって、廊下で言ってる連中がいましたよ」


 副官が前を向いたまま言った。

 声に怒りはなく、報告の声だった。


「事実だから仕方ない」

 ナディアの声は平らだった。


「ただし、座っているだけのつもりはない」


 副官は何も言わず頷いた。

 それで十分だった。


 フィールドの市街地模擬区画が見下ろせるが、建物の屋根が並んでいて路地の中は見えない。

 観客にとっては最も見えにくい地形だった。


「見えないな、これは」

 副官が呟いた。


「見えないことが、たぶん、あの男にとっては都合がいいんでしょうね」


 ナディアは自分の言葉に少しだけ驚いた。

 あの男の立場で考えている自分がいた。


***


 開始の合図が鳴った。


 準決勝第一試合、Fチーム対Bチーム。

 制限時間三十分、地形は市街地模擬区画。


 Fチームは、走らなかった。


 前衛四名がハンスに率いられ、大通りを歩いて進む。

 足音が石畳に規則的に響く。


 速くもなく遅くもない、行軍の足取り。

 側面支援の三名が西側の路地を並走する。

 こちらも走っていない。


 一回戦の速攻とは、何もかもが違う。

 Bチームの斥候がFチームの進軍を捉え、報告が北端のジュリアスのもとに届く。


「敵、大通りを南から進軍中。速度は遅い。陣形は正面に偏重。少数が西側を並走」


 ジュリアスは報告を聞いても何も言わず、市街地の屋上に配置した観測手に視線を送った。

 観測手が手信号で応じた。


「敵の後方に伏兵の気配なし」。


 ジュリアスはBチームの全体配置を確認した。

 十二人。


 前衛四を正面に、自分は中央広場の北側やや後方で指揮を執る。

 手元に予備一名。

 守備四は旗守備に二名を専任し後方守備に二名、伝令二。


 レイが正面から来ている。

 煙幕もダミーもない、教科書通りの正面進軍。


 嘘だ。


 ジュリアスの中で、直感が呟いた。

 レイが教科書通りをやるはずがない。


 一回戦であれだけの精密な作戦を組んだ男が、準決勝で何も仕掛けないはずがない。

 正面進軍に見せかけて、どこかに仕込みがある。


 構造式のように。

 隠れた因子のように。


 見える部分と見えない部分の二層構造。

 あの男の手法は、常に"見える嘘"を使う。


 教科書通りに見える。

 正直に見える。


 だがその見え方そのものが嘘だ。

 見える部分が嘘ではなく、見えない部分で勝つ。


 だがどこに。

 どの層を。

 どの時間を。


 西の路地、東の裏路地、地下水路の入口、建物の屋上。

 市街地には隠れる場所が無数にある。

 ジュリアスは五秒で判断した。


「前衛を中央広場の手前で止めろ。進軍するな。敵が仕掛けてくるまで待つ」


 Bチームの前衛が足を止め、中央広場の北端で建物の陰に展開する。

 守りに入ったのではない。

 レイの仕掛けを引き出すために、あえて動かない。


 ジュリアスの判断は正しかった。

 だが……正しさが罠だった。


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