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第11話「使わないつもりだと」

 会議室を出ると、廊下の窓際にトーマが立っていた。


 腕は組まず、手は横に下ろしたままだ。

 だが会議室の前にいるということは、待っていたということだ。


 トーマが誰かを待つのは、レイが見る限り初めてだった。


「トーマさん」

「……作戦。聞いた方がいいか」


 短い問いだった。

 普通なら事前の集団ミーティングで説明を待つものだが、トーマは自分から聞きに来た。


「明日の準決勝、トーマさんには旗守備をお願いします。市街地の路地を使った足止め。一対多を想定しています」

 トーマの目が動いた。


「一対多。何人だ」

「最悪の場合……六人です」


 数字を聞いたトーマの表情は変わらなかった。

 だが組んでいない腕が、ほんの僅かだけ緩んだ。


「……六人を、止めるだけでいいのか」

「止めるだけです。倒す必要はありません。路地を通さなければ、それで十分です」

「倒さなくていい」


 その言葉をトーマは繰り返した。

 声に感情はなかったが、レイは聞き取っていた。


 去年の事故。

 味方を庇おうとして、手加減しきれなかった。


 トーマにとって「倒す」は常に過剰の危険を孕んでいる。

 しかし止めるは違う。


 路地に立ち、通さない。

 それなら力の制御ではなく力そのものが武器になる。


「トーマさん。一つだけ伝えておきます」

 トーマが待っている。


「路地では、全力を出してください。手加減は、必要ありません」


 トーマの目が一瞬だけ開き、すぐに元に戻った。

 何かを聞こうとしてやめ、代わりに短く頷いた。


「了解した」


 壁から背を離し、歩き出した。

 扉の枠をくぐる時、今日は肩を引かなかった。


 いつもは無意識に肩を引いていた。

 あの事故の後、味方を庇って力が制御しきれなかったから、扉を通る時も無意識に体を小さくしていた。


 今日は違った。

 肩を引かない。

 体を小さくしない。


 まるで路地で立ち塞がるためかのように。


 レイはそれを見ていた。

 引かなかったことにトーマ自身は気づいていないだろう。


 だがレイには分かった。

 覚悟だ。


 路地で全力を出すという覚悟が、すでに体に降りてきている。


***


 夕刻の演習棟、廊下。

 西日が窓から斜めに射し込み、石の床に長い影を落としている。


 レイが物品登録の追加申請を出した帰りだった。

 準決勝の地形変更に伴う煙幕の数量調整。

 市街地では使いにくいため煙幕の数を減らし、滑り止め用具を増やす事務的な変更だった。


 廊下の向こうから一人の女子学生が歩いてきた。

 足音が規則的で、迷いのない歩幅に背筋が伸びている。

 運営責任者の歩き方だった。


 エレオノーラ・リヒトフェルデン。


 レイは足を止めなかった。

 止める理由はなく、すれ違うだけだ。

 だがエレオノーラが足を止めた。


「少しいいかしら」

 レイも止まった。


 エレオノーラの目は静かだった。

 来賓席で規定を読み上げていた時と同じ、境界線を引く目。

 今は、境界線を引く相手の目を見ている。


「あなたの物品登録について、いくつか通常と異なる申請がありました」

「……はい」

「全て規定の範囲内であることは確認しています。第七条第三項の控え室使用も含めて」

「ありがとうございます」


 エレオノーラは一呼吸置いた。

 次の言葉を選んでいるのではない。

 次の言葉の重さを、相手が受け止められるか測っている。


 来賓席の圧力を知っている。

 その圧力がこの廊下にも及んでいることを知っている。


 だが運営責任者としての権限は、その圧力から自分を守ってくれない。

 守ってくれる唯一のもの、それがルールだ。


「私にできるのは、ルールを守ることだけです」

 レイの目が動いた。


「ルールの内側で起きたことは、私が裁定します。公正に……来賓席から誰が見ていようと」

 そこで一度言葉を切り、廊下に二人の間の空気だけが残った。


「ただし、ルールの外で何が起きても、それは私の管轄ではありません」

 レイは黙ってエレオノーラの言葉の裏を読んでいた。


 表の意味は明白だ、規定の範囲内で戦え。

 裏の意味は、もし規定の外から何かが起きても運営責任者としての権限はそこに及ばない。

 つまり、そこは自分で守れと言っている。


 同時にもう一つの意味がある。

 ルールの内側で起きたことは裁定する、と宣言した。


 来賓席から誰が見ていようと。

 それはリヒトフェルデン家の圧力に対する、彼女自身の宣誓だ。


 エレオノーラは知っている。

 知っていて、運営責任者の立場を超えることができない。


「……ありがとうございます」


 レイは頭を下げた。

 下げながら思った。

 この学院には、自分と同じ重さを背負って立っている人間がいる。


 エレオノーラは頷いて歩き出し、三歩行ったところで背中越しに言った。


「明日の準決勝、見せてもらいます」


 それだけだった。

 足音が遠ざかる。

 規則的な歩幅、迷いのない背中。


 レイはしばらく廊下に立っていた。

 この学院には、自分の知らない重さを持って立っている人間がいる。

 やがて小さく呟いた。


「……見せてみます。あくまでルールの内側で」


 誰にも聞こえない声だった。

 だがもしエレオノーラが聞いていたら、足を止めただろう。


「あくまでルールの内側で」


 その言葉は、彼女の宣誓への返答だった。

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