第10話「正直に戦います」
合同実習二日目の朝の灰猫商会。
エルマが壁の前に立ち、右手にペン、左手に帳簿を持って壁のオッズ表を見上げている。
昨夜「28」の上に線を引いたまま空白だった横に、今朝ようやく数字を入れた。
9.5倍。
28倍からの下落。
オッズが下がった分だけ、金が動く。
灰猫商会のオッズは灰猫の分析に基づいて組まれている。
その分析の精度が十二分で証明された。
エルマはペンを置き、帳簿を開いた。
昨夜から今朝にかけて入った賭け金の一覧を確認すると、Fチームへの新規の賭けが十一件。
一回戦の前は七件しかなかった。
しかもそのうち三件は、Aチームの倍率を避けて大穴狙いでFに余った金を突っ込んだものだった。
だがエルマの目は新規の金ではなく、Aチームに入った金の方を見ている。
昨夜の時点で「"Fを潰せ"に張る金」と報告した。
その流れが一晩で加速していた。
大口が二件。
いずれもリヒトフェルデン系の商会を経由した匿名の入金。
オッズメイカーの目で見れば、この金は「Aが勝つかどうか」ではなく「Fが負けなければならない」という意思の表れだった。
「おはようございます」
扉が開き姿を現したのはレイだった。
昨夜ここで灯りを落として帰ったはずだが、朝の顔には寝不足の色がなかった。
寝ていないのか、寝不足を隠すのが上手いのかは、エルマにも分からない。
「旦那、最新のオッズを出しました。Fチーム、9.5倍です」
レイは壁を見た。
「……9.5。妥当な数字ですね」
「旦那が自分のチームに妥当って言うの、変な感じですけど」
「オッズメイカーは自分のチームにも公正でなければなりません……とはいえ、少し低い気もします」
「低い? あの結果なら妥当では?」
「いえ、それでも実力に対して低すぎます」
「旦那が手の内を全て開示したらこの程度の低さでは済まないと思いますけど」
「それは現在のオッズには無関係です。そしてだからこそ、市場がFチームを過大評価している
証拠でしょう。十二分の勝利が、分析以上の期待を生んでいる」
エルマは帳簿に目を戻した。
「期待が入ったオッズは歪む……ですか」
「ええ。歪んだオッズは誰かの得になり、誰かの損になる。今の場合——」
「Fが負ければ、得をするのはAに張った側。つまりリヒトフェルデン系。これ以上掛けが偏れば、損をするのはうちの帳簿」
「正確です」
エルマはペンを持ち上げ、帳簿の余白に小さく書いた。
『要注意:期待値の歪み』
「旦那。もう一つ、Aに入ってる匿名の大口、昨夜さらに二件入りました」
「額は?」
「二件で四百ディナール。合計するとAチームへの大口は七件、二千四百ディナール超……うちの月商のから考えるとなかなかのものです」
紅茶のカップを持ち上げようとしたレイの手が、途中で止まった。
「二千四百……ですか」
「これ以上Aチームに偏れば、旦那の帳簿じゃ捌けない額になりつつあります」
「分かっています……ですが、その金が動いていること自体が情報です。二千四百ディナールを匿名で張る人間は、それだけの金を失っても困らない人間です。そしてそれだけの金を張る理由がある」
紅茶のカップを置いた。
「数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、いつだって数字を書く人間です。二千四百という数字が語っているのは、彼らの自信ではない。彼らの不安です」
「Fが決勝に上がっては困る」
「ええ。準決勝でFが消えれば、決勝はAチーム対Bか、Cか。いずれにしても、彼らの仕組みが機能する相手です。ですが……」
レイは紅茶のカップを持ち上げ、ひと口啜った。
ぬるかった。
エルマが淹れたものだろう。
エルマの紅茶はいつもぬるい。
だが文句を言ったことはない。
「二千四百ディナールの匿名金には、もう一つの意味があります」
エルマの指が帳簿の上で止まった。
「彼らはFチームが準決勝で消えると確信していない。確信していれば、二千四百も張る必要はない。百で十分です。つまりこの金額は、消えなかった場合の保険です。消えなかった場合にも利益を確保するための金。言い換えれば——」
カップを置いた。
「Fチームが決勝に上がる可能性を、彼らは無視できなくなっている」
エルマは帳簿を閉じかけて止め、開いたままレイの顔を見た。
「……旦那。それ、嬉しそうに言ってます?」
「まさか。オッズメイカーとして分析しているだけです」
「口元、ちょっと動いてましたけど」
レイは紅茶に視線を落とした。
「エルマさん。帳簿の管理をお願いします。今日の準決勝が終わるまで、新規の大口は理由をつけて受け付けないでください」
「理由は」
「うちの帳簿が、彼らの賭場に使われるのは気に入りませんので」
エルマは一瞬だけ笑った。
営業用の笑みではなかった。
「了解です、旦那」
「旦那は」
「変わりません」
レイは反論をやめて肩をすくめると、学院へと向かうためにその場から歩みだした。
***
準決勝の組み合わせが確定し、フィールド脇の準備区画で八チームが集合した。
整列の最中、ジュリアスがFチームの列を通り過ぎた。
通り過ぎざまに、ハンスの横で足を止めた。
「お前のところの副官に、よろしく」
ハンスの眉が一瞬上がった。
副官……レイのことを、相手チームの指揮官が名指ししている。
ジュリアスはそれ以上何も言わず、Bチームの列に戻った。
レイは聞こえていた。
聞こえていて、帳簿の中の数字を一つ書き直した。
鉛筆の芯が丸くなり始めている。
エルマの斜めの角度が、紙の上で少し滑る。
ジュリアスは副官を狙う守備配置にする可能性がある。
いや、狙うのではない。
副官に会いに来る。
宣戦布告を先に渡す人間は、正面から来る人間だ。
***
第三演習棟、会議室。
ハンスが先に来ていた。
机の上に地形図を広げ、椅子に浅く腰掛けている。
制服の袖が捲り上げられていた。
一回戦で旗を掴んだ右手にまだ力が入りにくいのか、左手で袖を引き上げていた。
レイが入ると、ハンスが顔を上げた。
「座ってくれ」
座った。
地形図は準決勝の市街地模擬区画だった。
建物、路地、広場。
一回戦の森林地形とはまるで違う閉じた空間で、視線が通らない。
煙幕は建物の壁に遮られて拡散しないため使いにくい。
「ハンスさん。準決勝の相手について、一つ伝えなければならないことがあります」
「何だ」
「Bチームの指揮官は、僕の手口を知っている可能性があります」
ハンスの目が細くなった。
「……知っている?」
「はい。学院の知人です。僕の考え方の癖を知っている。一回戦の煙幕も、たぶん見抜いています」
嘘をつかなかった。
ハンスは腕を組み、しばらく黙っていた。
「あの男か……つまり、一回戦と同じ手は使えないということか」
「使えません。煙幕もダミーも、彼には通じにくい。裏があると思わせること自体が裏目に出ます」
「じゃあどうする」
「逆を行きます。裏を使わず、正面から戦う。ただし、正面から戦っているように見えること自体を疑わせます」
ハンスの眉が寄った。
「……もう少し分かりやすく言ってくれ」
レイは地形図の市街地中央広場を指で叩いた。
「Bチームの指揮官は、僕たちが何か仕掛けてくると思っています。だから序盤は慎重に動く。罠を警戒して進軍が遅れる。その間にこちらは正面から中央を取る。教科書通りの戦い方です」
「教科書通りで勝てるのか」
「教科書通りでは勝てません。ですが教科書通りに見せることで、彼に"裏がある"と思わせる。教科書通りなのに裏があるはず、その迷いが、判断の遅れを生みます」
「……つまり、正直に見えることが嘘だと」
「はい。ただし、本当に正直に戦っている部分もあります。嘘と本当が混じっているから、見分けがつかない」
「お前と話していると、何が本当か分からなくなる」
「それは褒め言葉として受け取ります」
ハンスが苦笑した。
だが苦笑の底には別の表情があった。
信頼と言うには早いが、疑念はもうなかった。
この男の言葉を信じて走った十二分間が、疑念を溶かしていた。
「具体的な話をしよう。配分はどうする」
レイは地形図の上に駒を並べた。
小石を十二個。
「攻撃七。ハンスさんが前衛隊長として突入班四名を率いてください。側面支援に三名。守備は三名、旗守備にトーマさんを置きます」
ハンスが石を一つ取り上げた。
トーマの駒だ。
「トーマを守備に? 攻めに使った方が火力が出ないか」
「市街地は路地が多い。狭い場所で一対多の足止めができるのはトーマさんだけです。攻撃に回すより、守備の要に据えた方が全体が安定します。それに——」
レイは一瞬だけ言葉を切った。
「トーマさんは、守る仕事の方が力を出せる人です」
ハンスは石を元に戻し、何も言わなかった。
言う必要がなかった。
去年の事故のことは、チームの誰もが知っている。
誰もが知っていて、誰も口にしない。
「伝令はリーゼ。僕は後方の指揮位置」
「お前はまた後ろか」
「後方にいなければ全体が見えません……ですが、一つ変えます」
レイは地形図の上に指を置いた。
後方指揮位置から、市街地の路地が分岐する要所まで。
「今回は後方に固定しません。状況に応じて位置を動かします。市街地は建物が視線を遮る。一箇所に留まると死角が増えます」
ハンスが目を上げた。
「動く、ということは、前に出る可能性もあるのか」
「可能性はあります。ただし前線には出ません。伝令経路の要所まで。そこからなら前衛と旗守備の両方に指示が届きます」
地形図の上に、レイの指が線を引いた。
後方から要所まで、要所から前衛方向、要所から旗守備方向。
二股の伝令線。
ハンスはその線を見た。
「……お前が要所に出るということは、後方が空くな」
「空きます。ですが後方に置いておく価値よりも、要所で判断する価値の方が大きい状況が来ます。相手がジュリアスですから」
「来るという根拠は?」
「ジュリアスは判断が速い。こちらの伝令が一巡する間に二手動かしてくる。伝令を介していては追いつかない場面が必ず出ます。その時、僕が前に出なければ間に合わない」
ハンスは腕を組んだまま、しばらく地形図を見下ろしていた。
やがて視線を上げ、地形図ではなくレイの顔を見た。
「お前と組んでから、戦うってことの意味が変わった気がする」
「……変わったのはハンスさんの方ですよ」
「俺が?」
「一回戦の前、十五分で勝てるかと聞いた時、ハンスさんは前衛を見て、リーゼを見て、トーマを見ました。全員を見てから"やろう"と言った。あれは指揮官の判断です。兵の顔を見ずに号令を下す人間には、兵はついてきません」
ハンスは何も言わなかった。
一回戦の前、自分が何を見ていたかなど、自覚していなかった。
レイに言われて初めて、ああそうだったかもしれないと思った。
言葉にされて初めて形になるものがある。
それを見つける目を持っている人間が、副官にいる。
それがどれほど稀なことか、ハンスにはまだ分からなかった。
「……買いかぶりだ」
「いえ、僕が人の値札を間違えることは、たまにしかありませんので」
ハンスは笑わなかったが、表情が緩んだ。
その変化は、言葉ではなく、肩の力が抜けたことで示された。
指揮官としての重さを、一瞬だけ置いた。
「たまにか」
「たまにです」
二人とも笑わなかった。
だが空気は笑っていた。
それは、試合前夜の笑いではなく、戦場で生きる者同士の笑いだった。
死ぬかもしれない場所で、なおも、信じる。
それを二人は確認し合っていた。




