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第6話「一回戦:十五分の設計図」

 開始の合図が鳴る。


 配分は攻撃八、守備三、指揮一。

 前衛四名とハンスの五名が攻撃。

 別動隊一名が側面。

 斥候二名が前方。

 旗守備二名と後衛一名が自陣。

 レイは後方指揮位置。


 開始直後、Fチームの陣形が崩れた。

 来賓席から見れば、統率の取れない部隊が散開しているように見えただろう。


 だが崩れは計算だった。

 斥候の二名がわざと目立つ動きで丘陵の稜線を走った。


 林の縁には迷彩外套を被せたダミー人形が四体。

 遠目には伏兵が潜んでいるように見える。


 Eチームの斥候がそれを捉えた。

 本陣に報告が入る。


「敵、前進。数は多い」


 Eチームの指揮官は堅実な判断を下した。

 攻めてくるなら守りを固める。

 十二人中八人を自陣防衛に回し、密集陣形を組んだ。


 走っているのは斥候の二名だけだった。

 Fチームの本隊は、動いていない。


 開始から三分。

 レイが後方指揮位置からリーゼに合図を送った。

 リーゼが走る。


 風上、南東側に配置されていた別動隊が、煙幕と簡易ミストを展開した。


 風が煙を運ぶ。

 だが、予定より遅かった。



 レイの指が止まる。

 風が死にかけている。


 ルーカスの右手が動いた。

 別動隊として風上に配置されていたルーカスが、煙幕の展開準備をしながら片手を上げていた。


 指を一本立てて風を受け、指先を下に傾ける。

 風が弱まっている、の合図。

 レイは後方指揮位置からその指を見た。


 耳では拾えなかった変化を、ルーカスの指が先に捉えていた。

 朝から安定していた南東の風が、試合開始の直後にわずかに弱まっていた。


 指先で測った風圧が変わった。

 秒速三メートルが二メートル弱に。


 煙幕の到達が二十秒遅れる。

 十五分の設計の中では、壁に穴が開くのに十分な時間だった。


 リーゼが振り返った。

 伝令の目で、次の指示を待っている。

 目の奥に不安が一瞬だけよぎった。

 だがそれは問いかけの不安ではなく、答えを受け止める準備をしている目だった。


 選択肢は三つ。

 煙幕を待つか、ミストを先行させるか、正攻法に切り替えるか。

 二番目。

 即座に結論が出た。


 リーゼに合図を送った。

 手の動きだけで、言葉は使わない。


 リーゼが頷いた。

 二日前の作戦会議で決めた予備信号の一つ、「第二段の前倒し」。


 迷いはなかった。

 暗記した手順が、身体から出た。


 別動隊がミスト発生具を追加展開した。

 白い靄がフィールドの低い位置に広がっていく。

 煙幕が到達する前に、Eチーム陣地の足元が白く曇った。



 Eチームの前衛が足元を見た。

 靄の中で足場が見えない。

 左足を引いた。


 引いてから気づいた。

 足を引いたのは判断ではなかった。

 見えなくなった地面が怖かったのだ。


 怖いと思った三秒の間に、足が動かなくなっていた。

 隣の兵が声を出しかけた。


「足元——」

 言い終わる前だった。


 後方から煙幕が追いついた。

 弱まっていた風が、地形の谷間を通る時に加速した。


 煙が一気にEチーム陣地を包んだ。

 視界が潰れた。


 同時に、前衛の一名と斥候の一名が森林地帯に入った。

 Eチームの伝令経路に滑り止め用具を逆向きに配置していく。


 走れば転ぶ仕掛けを三箇所。

 その後方で、カールが煙幕筒の残数を数えていた。


 使用済みと未使用を正確に分けて、次の展開に必要な数を隣のルーカスに指で示している。

 声は出さない。

 数だけを、手で伝えた。


 Eチームは守備密集のまま前線からの報告を待った。

 だが伝令が足場を崩されて遅れている。

 靄の中で何が起きているか、指揮官の手元に情報が届かない。


 開始から七分。

 レイがハンスに合図を送った。


 ハンスが動いた。


 煙幕の中に入った瞬間、視界が白くなった。

 三歩先が見えない。

 音も曇っている。

 自分の足音と呼吸だけが耳に残る。


 前衛二名が隣にいる……はずだ。

 煙幕の中では目視できない。


 出発前に決めた間隔、右に四歩、左に四歩。

 その距離を信じて走るしかない。


 地形は頭に入っている。


 レイが何度も壁に貼り直した配置図。

 林の端から旗までの距離。

 途中の窪み。

 右に逸れると木の根がある。


 煙幕の中で、前方から足音が聞こえた。

 乱れている。


 前衛の一人だ。

 方向を見失っている。


 声を出せない。

 声を出せば敵にも位置が伝わる。


 レイの合図を待つべきだ。

 後方指揮位置からの合図が来れば、修正できる。


 だが、足音が逆方向に遠ざかり始めた。

 このまま走れば、Eチームの守備の正面に出る。


 考えるより先に声が出た。

「左に二歩!」


 煙幕の中に、ハンスの声が走った。

 低い声だった。

 自分でも驚くほど通った。


 紙の端を折り直していた頃の声ではない。

 中庭のベンチで九つの勝ち筋を聞いた翌日から、少しずつ変わっていた声だった。


 足音が止まった。

 止まって、左に動いた。


 二歩。

 ハンスの声に従って。


 同時に、後方からレイの合図が来た。

 盾を叩く打音二回……左へ二歩の意。

 煙幕に入る前に決めた補正信号だった。


 この地形では七分経過時点で右に流れる。

 地図と走力から逆算した修正値。

 だがその合図が示す内容は——ハンスが声で出した指示と同じだった。


 同じ答え。

 だがハンスの方が速かった。


 レイの合図は正確で、ハンスの声は速かった——正確さと速さ。

 副官と指揮官が、煙幕の中で同じ場所を指していた。


 新たな打音。

 後方指揮位置から、レイの指示が出される。

 だが合図が届く前に指揮官が動いていた。


 左から足音。

 南側から回り込んだ二名が、Eチームの守備の左翼に接触した音だった。


 金属がぶつかる音。

 怒声。

 陽動班が左翼を引きつけている。


 ハンスは右に走った。

 煙幕の中で何も見えない。


 信じているのは、レイが組んだ地図と、リーゼが計った距離だけだった。


 左から影が来た。

 煙幕の中で、Eチームの守備の一人が手探りで移動してきたのだ。


 模擬剣が振られた。

 ハンスは反射的に半身を引いた。


 剣が肩の前を過ぎた。

 判定徽章に反応はない。

 かすりもしなかった。


 だが腕の間合いに相手がいる。

 次の一撃は避けられない。


 受ける、と決めた。

 盾を前に出した。


 相手の剣が盾を打った。

 衝撃が腕に響く。


 判定徽章が一瞬明滅した。

 黄。


 軽傷判定。

 行動に支障はない。


 盾で相手を押し返した。

 相手が体勢を崩した隙に、走った。


 煙幕が薄くなった。

 視界の端に、旗竿が見える。


 Eチームの守備は密集していた。

 だが密集しすぎていた。


 煙幕の中で互いの位置が分からず、声を頼りに固まった結果、旗から離れた位置に密度が偏っている。


 旗と守備の間に、隙間があった。

 レイが壁に貼った配置図の中で、「ここが空く」と赤い丸で囲んでいた場所。


 空いていた。


 ハンスが加速した。

 あと十歩。


 旗に手をかけた。

 引き抜いた。


 走った。

 開始から九分。

 あとは旗を持って戻るだけだった。


 走り出した三歩目で、右足首が鳴った。

 靄の中の石を踏んだ。

 角度が悪かった。


 足首が内側に折れかけた。

 判定徽章が黄に点灯する。


 軽傷判定。

 走れる。

 走れるが、速度が落ちた。


 三割。

 レイは薄くなった煙幕の隙間からその瞬間を見ていた。


 ハンスの歩幅が縮んだことを。

 走り方が変わったことを。


 三割の速度低下。

 残り百二十歩。


 六秒の遅延。

 六秒あればEチームの追撃組が届く。


 計算が一瞬止まった。

 止まって、動く。


 レイの指が動いた。

 見えない駒を動かすように。


 リーゼに合図を送った。

 手順書にはない合図。

 即興の合図。


 レイの右手の指が二本立っているだけの合図。

 旗持ちの前に出ろ。


 リーゼは合図を見て、一秒で走り出した。

 ハンスの走路の前方に回り込んだ。


 旗を受け取るためではない。

 道を開けるためだ。


 伝令が旗の先導になる。

 教科書にはない使い方だった。


 リーゼが走った。

 小柄な体がEチームの追撃の視界を遮り、ハンスの進路上にいた残兵が一瞬リーゼの方を見た。


 一瞬。

 それだけで十分だった。


 ハンスが最後の二十歩を、黄の足で、駆け抜けた。


 開始から十二分。

 Fチーム勝利。


 だが無傷ではなかった。

 別動隊のルーカスが、煙幕展開を終えた後に陽動班へ合流し、その帰路でEチームの巡回兵と接触していた。


 靄の中で視界が効かず、回避が遅れた。

 模擬剣が脇腹を打ち、判定徽章が黄に点灯した。


 軽傷判定。

 戦闘は続行できる。

 だが打たれた脇腹が膨らみ始めていた。


 内出血だ。

 走れはする。

 だが全力の陽動はもう難しい。


 十二分の勝利は無傷ではなかった。

 風を読む目が一つ、鈍った。


 ハンスが膝に手をつき、息を吐いた。

 旗竿を置いた手がまだ震えている。


 十二分の全力疾走だった。

 右足首が熱を持っている。


 黄判定の足で走り切った最後の三分間が、まだ脈を打っていた。

 振り返ると、後方指揮位置にレイが立っている。


 レイは何も言わなかった。

 ただ小さく、頷いた。


 頷きの中身は、ハンスにしか読めなかった。

 あの頷きは「よくやった」ではない。

 「信じていた」だ。


 頷くだけでレイは十分だと思っている。

 十分だと思っていることが、ハンスには、言葉より重かった。


 息を整えてから、旗を掲げた。


 ***


 来賓席がざわついた。


 28倍のFチームが、制限時間の半分もかけずに勝った。

 しかも来賓席からは、何が起きたのかほとんど見えなかった。


 煙幕と靄に覆われた十二分間。

 気づいた時には旗が奪われ、試合が終わっていた。


 Aチームの勝利は、全てが見えた勝利だった。

 起きたことの圧倒さが観る者を打った。


 Fチームの勝利は、何も見えなかった勝利だった。

 見えなかったこと自体が、設計だった。


 さらにAチームの十八分より早い十二分。

 だが来賓席が恐れるべきは、見えた勝利より、見えなかった勝利の方だった。


 観客の丘から見ていたナディアは、フィールドを見下ろしたまま動けなかった。


「十二分で一体何が……」


 即興ではない。

 この精度は、試合の前に完成していたものだ。


 いや、試合の前だけではない。

 風が変わった。

 ナディアはそれに気づいていた。


 開始から三分で靄が先に展開され、煙幕が遅れて追いついた。

 あの切り替えも即興ではない。

 風が変わった場合の予備手順まで組んでいたということだ。


 ナディアの目がフィールドを走った。

 ハンスが旗台の横で息を切らしている。

 前衛が戻ってきている。

 リーゼが煙幕の残りを回収している。


 その後方、フィールドの端に、一人だけ動いていない人間がいた。


 レイ・ラマリン。

 旗にも触れていない。

 剣も抜いていない。

 煙幕の中にも入っていない。


 十二分の設計者が、後方指揮位置に立ったまま、動いていない。

 物品登録のリストが頭をよぎった。

 防魔布。

 ダミー人形。

 煙幕。

 ミスト発生具。


 あのリストの品目が、目の前の十二分間を作っていた。

 あの男は書類の上で、この十二分間を先に見ていた。

 そして風が変わっても、十二分で終わらせた。


 だがリストにはもう一つ、この十二分間とは無関係の品目があった。

 防魔布。

 攻撃魔法が禁止された模擬戦で、なぜ。

 その意味がナディアには分からなかった。

 あの男はすでに、いくつも先の場所を見ている。


 ナディアは拳を握っていた。

 手が白くなるほど握っていたことに、自分では気づいていない。


 だが負けた気にはなれなかった。

 道が違うことと、格が違うことは、同じではない。


 来賓席の最上段で、アレクセイが薄く笑っていた。


「きれいで、速い」


 アレクセイはすでにフィールドの後方を見ていた。

 レイが立っている場所を。


 一瞬だけ、アレクセイの目がレイの右目に止まった。

 視線がすっと外れた。


 ヴァイスが頷いた。


「次の対戦相手が分析するのは難しいでしょう。見えたものが少なすぎます」

「そうだね。あの男は勝ったのではなく、見せなかったんだ。見せないことを選べる人間は自分を隠す理由を持っている」


 ヴァイスが横目でアレクセイを見た。

 この言葉に含まれる響きを、従者は聞き逃さなかった。


「きれいな勝ち方だからこそ、次は、汚されるかもしれないね」


 そしてもう一つ、と呟いた。

 声はヴァイスにも聞こえなかった。


「きれいな勝ち方しかできない人間は、汚い場所では生き残れない」


 ***


 来賓席の回廊。

 平服の男が、膝の上の書類に一行書き足した。


 万年筆の先が紙を擦る音は、周囲の拍手にかき消された。

 書き足した内容は短かった。

 「Fチーム:煙幕主体。視界制圧型。対抗手段は判定規定の運用」。


 万年筆を畳み、書類を綴じた。

 紋章のない表紙の、紋章のない書類だった。


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