第4話「二八倍の朝」
合同実習の朝は、風の匂いで始まった。
草が乾く匂い。
土が冷える匂い。
季節の変わり目の空気。
春から夏への移行ではなく、夏から秋への遷移。
その空気を吸うと、肺の奥まで乾燥が伝わる。
咳き込みそうになるのを堪える。
今、そんなことをしている場合ではない。
南東からの風。
乾いていて、冷たい。
冬の手前の風だった。
口の中で唾液が少しだけ蒸発する感覚。
朝露がまだ草に残っているはずなのに、指先に触れるのは乾いた空気。
湿度は低い。
レイは野外演習場に着いてまず空を見上げた。
上空の雲が一定の方向に流れている。
その流れは、地面の揺らぎとは少し異なっていた。
高度による風の変化。
人差し指を立てて風を受けた。
秒速およそ三メートル、ただし時々二・八メートルに落ちる不規則な吹き方で、その変動をレイは数えている。
煙幕の展開に必要な計算値は、一定の風速を想定している。
だが実際の風は、常に変動する。
その変動の中で、計画をどう実行するか。
それこそが現場の仕事だった。
演習場は広かった。
中央のフィールドを囲むように、来賓席が階段状に設えられている。
最上段には各国の要人。
その下に武官や外交官。
最下段が一般見学者の席。
席が埋まり始めていた。
だが集まった人々の半分は、試合を見に来たのではない。
フィールドに立つ生徒たちを品定めに来たのだ。
この席から推薦書が出る。
後援が決まる。
配属先が定まる。
来賓席にはすでに顔が揃い始めている。
リヒトフェルデン王国の武官長代理は折り目の正しい上衣に、刺繍ではなく織り込まれた金と紫の紋章。王家の色。
ヴァルトシュタイン公国の外交官は、眼鏡を外した時に目元の皺が見える。交渉に慣れた顔の男。
そしてクレスヴァイン家からは、アレクセイ・クレスヴァイン本人が来賓として座っていた。
学院の三年生でありながら来賓席に座る人間は、同盟の歴史の中でも数えるほどしかいない。
その男は、全ての試合が始まる前から、すでに何かを観ているようだった。
フィールドではなくその向こう側、来賓席ではなくその周辺を。
レイはフィールドの端から来賓席を見上げた。
距離がある。
だが来賓席からフィールドまで、遮蔽物はない。
開放空間。
昨夜壁に貼った見取り図が、頭の中に重なった。
フィールドの東側の丘。
西側の森の稜線。
どちらも来賓席の後方から射線が通る。
***
来賓席付近の控え室。
第七条第三項に基づいて確保した小部屋だった。
ミラが黒い外套を脱いでいた。
その動作は早かった。
必要以上に素早く、無駄のない切り詰めた動き。
代わりに、学院の一般見学者に紛れる格好に着替えている。
地味な上衣と長い袖。
右手の火傷の痕を薄い手袋で隠す。
その時、ミラの口元が一瞬だけ動いた。
痛みか、それとも何かの確認か。
手袋の下でミラの指先は開き、握り、開く。
何度も何度も。
自分の身体にこれから何をさせるのかを、無言で言い聞かせている。
防魔布は三枚登録した。
一枚はレイの外套に縫い込んである。
残る二枚は控え室に保管してある。
エルマが横で伝令用の簡易光信号具を確認していた。
「ガルドは会場の外。私はここ」
ミラは窓の外を見ていた。
来賓席の裏手が見える。
「……人が多い」
「うん」
ミラは手袋をした右手を握り、開き、また握った。
手袋の下で指が軋む音がした。
小さな音だったが、エルマは聞いた。
聞いたが、何も言わなかった。
「何かあったら光を三回。なければ一回」
「分かった」
ミラが控え室を出た。
一般見学者の群れの中に、細い体が紛れていく。
紛れた瞬間から、ミラの足音は消えていた。
***
開会式。
八チームがフィールドに整列した。
AからHまで、計九十六名。
各チームの指揮官が来賓席に向かって一礼する。
Aチームが紹介された時、来賓席から拍手が起きた。
十二名全員が制服を隙なく着こなし、姿勢が揃っている。
指揮官ディートハルト・フォン・リヒトフェルデンが一礼する。
武官長代理が頷いた。
レイはAチームの十二人を見た。
重心の位置、隣との間隔、呼吸の深さ。
全てが揃っている。
揃えようとして揃えたのではない。
揃っていることが自然になるまで繰り返した練度だった。
Fチームの番が来た。
来賓席から、小さな笑いが漏れた。
十二人の中で姿勢がまともなのはハンスとリーゼくらいだった。
前衛の一人は制服の釦を一つかけ忘れている。
文学科の一人は眠そうに目を擦っていた。
トーマに至っては欠伸をしていた。
28倍のチームに相応しい光景だった。
ハンスの顔が強張った。
笑い声は聞こえているだろう。
レイが隣で呟いた。
「笑われているうちは計算の外です。ありがたいものですね」
ハンスは何も言わなかった。
だが強張りが一段だけ緩んだ。
来賓席の最下段、一般見学者の列に、見覚えのある髪の色があった。
マリエルだ。
手を振っていない。
ただ座って、フィールドを見ている。
文芸祭の打ち合わせを来週に延期した女子学生が、ここにいた。
壇上で、運営責任者のエレオノーラが安全規定の説明を始めた。
使用が許可されるのは刃引きの模擬剣のみ。
攻撃魔法は一切禁止。
許可される魔法は身体強化、短距離探知、小規模な風操作の三種。
各参加者は判定徽章を装着し、有効打を受けると徽章が点灯する。
黄は軽傷、橙は重傷で行動制限、赤は戦闘不能で即退場。
勝利条件は敵の旗を自陣に持ち帰ること。
または制限時間三十分終了時の判定成績。
エレオノーラの声は一字の揺れもなかった。
規定を読み上げる声というより、境界線を引く声だった。
レイはハンスに小声で話しかけた。
「ルールは単純ですが、相手がどう配分するかを読み、その裏をかけた者が勝ちます」
ハンスが小さく頷いた。
「もう一つ。模擬戦は三十分ですが、本当の戦いは三十分では測れません。相手が何を見せて、何を隠すか。今日見せたものが明日の材料になる。つまり一回戦は——」
「準決勝のための試合でもある、ということか」
「はい。ハンスさんは飲み込みが早い」
ハンスは苦笑した。
褒められたのか試されたのか、判断がつかなかった。
開会式の最中、ミラは一般見学者の最後列に紛れていた。
エレオノーラの声は聞いていない。
目は来賓席の後方を見ている。
三人の男が、来賓席の端に座っている。
服装は一般見学者に近いが、目の動きが違った。
試合を楽しみに来た人間の目ではなく、距離と角度を測っている目だった。
一人目はフィールドの左翼を繰り返し見ている。
二人目は全体を走査しながら、時折、来賓席の方を確認していた。
三人目は手元に何か小さなものを持っている。
筆記具ではない。
三人の目が共通して避けている場所があった。
Aチームの陣地側だ。
見ないようにしている。
すでに確認を終えた場所を、意識して避けている。
ミラはその三人の位置を記憶した。
顔を。
座席を。
そして避けた視線の先を。
***
合同実習の前日。
夕食。
演習棟の食堂は広かった。
各チームが思い思いのテーブルに散っている。
Aチームは一つのテーブルにきっちり十二人が揃い、声は低いが空気に隙がない。
Bチームは半分が席について半分が立っている。
ジュリアスの笑い声だけが妙に通る。
Fチームのテーブルには、七人しかいなかった。
ハンスが中央に座り、カールとリーゼが向かいにいる。
前衛の二人が端に座っている。
ベアトリスが隅で黙って食べている。
七人。
残りの五人はまだ来ていないか、来る気がないか。
トーマはいなかった。
レイは食堂の給仕台の前に立っていた。
水差しと杯を十二個、盆に載せている。
十二個の杯を両手で運んだ。
テーブルに着いた。
「紅茶はないので水で失礼します」
一人ずつ、杯を配った。
ハンスの前に。
カールの前に。
リーゼの前に。
前衛の二人の前に。
ベアトリスの前に。
七人に配り終えて、五つ残った。
レイは五つの杯を、空いている席の前に置いた。
全部で十二個。
十二人分。
来ていない人間の分も。
ハンスが見ていた。
リーゼも見ていた。
ベアトリスは顔を上げなかったが、目の端で見ていた。
レイは何も言わなかった。
自分の席に座り、自分の杯に口をつけた。
水だった。
紅茶ではなく、温度もなく、味もない……ただの水だった。
食事が進んだ。
十分ほどして、前衛の一人がテーブルに来た。
自分の前に杯があるのを見て、一瞬驚いた顔をした。
座った。
飲んだ。
その後、ルーカスが来た。
少し遅れて。
杯を見て、何も言わず座った。
別動隊の一人が来た。
もう一人も、しばらくして来た。
トーマは来なかった。
食事が終わる頃、十一人がテーブルにいた。
一つの杯だけが、壁際の席の前に置かれたまま残っていた。
レイは立ち上がる前に、トーマの席を見た。
杯は置いた時のまま。
水面が揺れていない。
触れられていない。
食堂を出た。
出口の柱の影に、気配があった。
トーマだった。
食堂に入らなかった。
だがここにいた。
柱の影から、テーブルが見える位置に。
十二個の杯が見える位置に。
レイは足を止めなかった。
トーマの前を通り過ぎた。
声はかけなかった。
三歩過ぎた時、背後で音がした。
足音だった。
食堂に向かう足音。
重い足音。
だが乱れていない。
振り返らなかった。
翌朝、食堂の片付けをしていた係の学生が、壁際の席に空の杯が一つ残っているのを見つけた。
水は入っていなかった。




