第3話「一・一倍の値札」
壁を見た。
紙片が並んでいる。
Fチーム28倍。
ファルニエ諸国同盟の存続年数。
……そして合同実習の作戦案。
三枚の紙が、すでに文字で埋まったまま同じ灯りの中にある。
だが作戦案は紙の上だけではない。
壁の裏に、別の層があった。
目に見えない計算。
数字では書かれない想定。
紙に載る戦術と、紙に載らない心理戦。
そのすべてが、この戦いを動かす。
その時、椅子の脚に目が行った。
補強材が一本、余計に取り付けられている。
壊れた箇所ならまだしも、壊れていない脚にまで追加されていた。
「ガルド、この椅子、以前より重くなってない?」
カウンターの方からガルドが現れた。
「……壊れたら困るんで」
「前から壊れたことはないですよ」
「だからこそ」
それだけ言ってガルドは奥に戻った。
椅子の脚を見た。
確かに修理ではなく、補強だった。
壊れた箇所だけでなく、まだ壊れていない箇所まで強化されている。
次に壊れることを、許さないように。
エルマが帳簿の上に肘をついて待っていた。
「旦那、ひとつ確認を」
「何ですか」
「Fチームの28倍。うちの帳簿だと、賭けた客が七人います。うち三人は常連、残り四人は旦那が数字を見せた相手」
レイは黙った。
灰猫商会のオッズはレイの分析に基づいて作られている。
分析結果を見て、この目を信じた人間だけが28倍に賭けた。
「勝つつもりなのですか?」
エルマの声から、皮肉が抜けていた。
「勝つつもりかどうかは、オッズメイカーが答える質問ではありません」
「じゃあ誰が答えるのですか」
「……Fチームの副官が答えます」
エルマは何も言わなかった。
帳簿を開き直し、数字の確認に戻った。
その手は安定していた。
何があっても数字を書き続ける手だった。
「合同実習の間、お店のことをお願いします」
「わかりました」
一言だけ返して、エルマはペンを走らせた。
湯を沸かしかけて、やめた。
明日は盤の上に立つ以上、温かいものを飲んでいる場合ではなかった。
エルマの机を見た。
黒インクの瓶が三本並んでいる。
どれも使い込まれて指紋が重なっている。
そしてその隣に、赤インクの瓶が一本。
ほぼ新品に見えたが、蓋の縁にだけかすかに赤い染みがあった。
一度だけ開けた痕跡……何に使い、いつ使ったのか。
それは聞かない。
窓際にミラが立っている。
いつもの場所に、短刀を鞘に収めたまま。
ミラは説明をしない。
ただ待つ。
頼まれたことが終わるまで、その場所に立ったまま待つ。
それがミラの誠意だった。
カップは出さなかった。
「ミラ」
「……何?」
「五日後、僕は盤の上に立ちます」
ミラは何も返さなかった。
窓の外を見ていた。
星の見えない夜だった。
レイも窓の方を見た。
それから、壁に目を移した。
作戦案は完成している。
配置案も。
勝ち筋の選定も。
手続きは明日一日で片がつく。
準備自体は五日前に終わっている。
正確には、五日前に終わっているように見せることが、準備というものだ。
紅茶が冷めた。
三杯目だった。
考え事をしているうちに冷めていた。
飲み干した。
冷めていたが、不愉快ではなかった。
明日には全員が揃う。
紙片が人になり、数字が足音になる。
その足音の中に、まだ聞いていない音がある。
帳簿にも壁にも書いていない。
アレクセイ・クレスヴァインという名前の音を、レイはまだ知らなかった。
灯りを落とす前に、もう一度だけ壁を見た。
「ファルニエ諸国同盟の存続年数」。
白い紙片に、数字はまだ入っていない。
その隣に、今夜新しく並んだ「Fチーム28倍」。
灯りを消した。
紙片が闇に沈む。
だがその闇の向こうで、別の場所にも灯りがあった。
***
同じ夜。
合同実習の会場となる野外演習場は、まだ誰もいない暗い広場だった。
来賓席の最上段から、一人の男が演習場を見下ろしていた。
隣に控えた従者が、一言告げた。
「リヒトフェルデンの連中が"保険"を用意しているそうです」
男は演習場から目を離さなかった。
来賓席からフィールドまで、遮蔽物のない開放空間が夜闇の中に広がっている。
「放っておいてください」
穏やかな声だった。
「灰猫がどこまで嗅ぎ取るか、見せてもらいましょう。それで色々と計れるはずです」
従者が一礼し、一歩退がった。
アレクセイ・クレスヴァインは最上段から動かなかった。
乾いた風が吹いていた。
五日後、この場所は全て埋まる。
数字と人間と、数字では測れないもので。
それを見届ける目が、暗闇の中で静かに細められた。
見届けるだけだろうか。
それとも……
合同実習まで、あと五日。
***
翌朝、物品登録の窓口で承認印を十七個もらった。
迷彩外套、遮光布、化学発光灯、ダミー人形、煙幕、ミスト発生具、滑り止め用具、反射板。
登録係の顔が途中から呆れに変わっていた。
「……こんなに登録する生徒は初めてです」
「規則を守るのが好きなんです」
最後に、別の書式を一枚出した。
第七条第三項に基づく控え室への物資保管申請。
登録係は規定書の発行年を二度確認し、もう一度活字を読んだ。
「……初めて見ましたよ、この書式」
「使ったことがないだけで、禁止はされていません」
承認印が押された。
全品目の登録完了。
控え室の使用許可つき。
***
合同実習の二日前。
第三演習棟の会議室。
ハンスとリーゼが待っている。
地形図はすでに壁に貼ってある。
三試合分。
九つの勝ち筋を三つに絞り終え、今日は配置の最終確認だ。
一枚目の地形図。
平地が広く、遮蔽物は中央の丘陵と左翼の森のみ。
レイが前衛四名の展開位置を指で示した。
「ここから丘陵の裏まで、走って四十秒。相手の前衛が中央を押してきた場合、四十秒以内に左翼の森に——」
「待て」
ハンスが手を上げた。
「前衛四人を全員左に振るのか。中央が空く」
「空きます。ですが空いた中央に敵チームが入った瞬間、左翼と右翼から挟み込む形になります」
「……中央を捨てて、両翼で囲い込む」
「はい。ただし、中央を空けるのは前衛だけです。旗守備の二名は動かしません。中央が薄いように見えて、旗だけは固い。相手が旗に殺到した瞬間、挟撃が成立します」
ハンスは地形図を睨んだ。
指で前衛の動線をなぞっている。
数秒して、頷いた。
「……四十秒の賭けか」
「四十秒は計算です。走力は事前に計測していますので。ただし判断が四十秒以内に出るかどうかは、指揮官の仕事です」
ハンスが苦笑した。
「つまり俺が四十秒で決断しなければ成立しない、と」
「信頼しています」
レイの声は穏やかだった。
ハンスは苦笑をやめなかったが、目は笑っていなかった。
真剣に受け取った、という目だった。
リーゼが二枚目の地形図に赤い印を入れた。
伝令経路の修正だ。
「この斜面、雨が降ったら走れません。迂回路を一本追加していいですか」
「お願いします。所要時間はどのくらい増えますか」
「十五秒です」
「採用します。十五秒は許容範囲です」
リーゼが頷き、赤い線を引いた。
地図に線を引く手は迷いがなかった。
地形を見て、足で測り、線を引く。
最初の顔合わせで「Fチーム、つまり最後のアルファベットですね」と苦笑していた女子学生は、もう苦笑していない。
三枚の配置が確定したところで、レイはもう一枚の紙を出した。
「ハンスさん。もう一つ、作っておきたいものがあります」
「まだあるのか」
「指揮継承の手順書です」
ハンスの手が止まった。
「……縁起でもないな」
「十二人の隊列で指揮が途絶えると、十秒で崩壊します。十秒あれば隊列は組めますが、十秒で崩れる方が速い」
ハンスは苦笑した。
だがレイの目を見て、苦笑をやめた。
「……本気で想定しているのか」
「想定しなかった最悪は、想定した最悪より常にひどいものです」
しばらく黙っていた。
腕を組み、天井を見上げ、それから配置図に目を戻した。
「分かった。作れ」
レイはリーゼの方を向いた。
「リーゼさん。手順書の内容を暗記してもらえますか。紙は試合中に失う可能性がある。伝令の頭の中にある情報だけが、確実に残ります」
リーゼは一瞬驚いたが、すぐに頷いた。
手順書は短かった。
指揮官が行動不能の場合、指揮権は副官に移る。
副官も不能の場合はリーゼが伝達を統括し、前衛は最先任者の判断に従う。
移行の合図。
伝達の経路。
優先順位。
全てが一枚の紙に収まる。
リーゼはそれを三度読み、紙をレイに返した。
「覚えました」
返された紙を畳む。
使われないことを祈る。
だが祈りはオッズに影響しない。
***
手順書を畳み、鞄にしまった。
会議室を出ると、窓の外に演習場の方角が見えた。
明後日、あの場所で試合がある。
全ての紙片が、地面の上の現実になる。
配置図は完成し、手順書もあり、物品は全て登録済みだ。
だが紙の上に載らないものが一つある。
来賓席の後方から注がれる視線。
金が「勝たせるつもり」で動いている気配。
レイは窓から目を離した。
今考えても仕方がない。
まだ仮説でしかない以上、証拠が揃うまで帳簿には書かない。
ただ、防魔布を三枚登録した自分は、仮説を捨てていない自分だった。
***
同じ日の午後、別の場所で、別の人間が同じ紙を読んでいた。
Cチームの作戦室。
ナディアは机の上に全チームの物品登録リストを広げていた。
条例を開く。
複雑に入り組んだ文言を辿っていく。
指が『賭博』の項で止まった。
止まった指先が白くなるまで、紙を押さえていた。
法律の条文を読むだけの人間がする仕草ではなかった。
記述内容ではなく、その項の存在そのものに何かが引っかかっている。
公正性の確保のため、登録内容は全チームに回覧される。
大半のチームの申請は似たり寄ったりだ。
模擬剣の替え、水筒、包帯、信号具。
実用的で、面白みはない。
Fチームの欄で指が止まった。
迷彩外套。
遮光布。
化学発光灯。
ダミー人形。
煙幕。
ミスト発生具。
滑り止め用具。
多い。
だが理解はできる。
情報撹乱を軸にした作戦だろう。
28倍のチームが正面から戦わないのは理に適っている。
その下。
防魔布。
数量三。
ナディアの指が止まった。
合同実習で許可されている魔法は、身体強化、短距離探知、小規模な風操作のみ。
攻撃魔法は一切禁止。
防魔布が必要になる場面は、規定の中には存在しない。
「……防魔布?」
声に出ていた。
隣のCチーム副官が振り向いたが、構わなかった。
攻撃魔法が禁止の模擬戦で防魔布を三枚。
だがナディアの目が止まったのは品目だけではなかった。
登録の書式だ。
条項の根拠が一字の不備もなく記載されている。
こんな丁寧な登録をする人間が、意味もなく重い装備を持ち込むだろうか。
「……何をする気なの」
リストを机に置いた。
判定魔道具の誤作動対策。
雨天時の保護。
名目としてはあり得る。
だが防魔布は重く嵩張る。
「念のため」で持ち込むものではない。
わざわざ登録するからには、使う前提で申請している。
では何に使うのか。
攻撃魔法が飛んでこない場所で、防魔布を。
飛んでこない、という前提が正しくなければ……
ナディアはその仮定を即座に退けた。
学院の合同実習で外から攻撃魔法が飛んでくるなど、正気の想定ではない。
だが退けた仮定が、頭の隅に残った。
あの賭け屋は、いつも正気の想定の外側にいた。
店を焼かれた翌日に、殴り込みではなく書類を出していた。
自分が「あり得ない」と思った手順を、帳簿の上に並べていた。
あり得ないと自分が思うことを、あの男は規則の範囲内でやってのける。
それだけは知っている。
リストを畳み、自分の作戦資料の下に重ねた。
Cチームの準備に戻る。
正面から戦う。
正攻法で勝つ。
それが自分のやり方だ。
だが机に向かい直した後も、左手が資料の下のリストの角を、無意識に何度か押さえていた。
自分のCチームの物品リストに目を戻した。
副官が昨日追加した品目が一つある。
連絡用の遮光布、等級Ⅰの範囲内だが、用途の欄が空白だった。
「これ、用途が未記入です。出し直してください」
副官が振り向いた。
「別にいいでしょう。等級Ⅰだし、通りますよ」
「用途が空白の申請は不備です。通すことはできても、規定が想定している手続きではない」
副官は何か言いかけて、やめた。
代理で指揮官となった一年生の目を見たからだ。
書き直しの紙を受け取り、席に戻っていった。
小さなことだった。
通してしまえば誰も気づかない程度の不備だ。
だがナディアは通さなかった。
自分のチームに不利でも、通さなかった。
***
夕刻。
運営本部の大会議室の前。
エレオノーラ・リヒトフェルデンが廊下を歩いていると、向こうから一人の男が来た。
ディートハルト・フォン・リヒトフェルデン。
Aチーム指揮官にして、分家の長男。
血縁は近いが、立場は遠い。
エレオノーラが足を止めた。
「ディートハルト。少しいいかしら」
「はい」
姿勢を正す。
軍学科の人間の立ち方。
簡潔で、余分がない。
「貴方の成績が議会で使われることは知っているかしら?」
「知っています。だが俺が気にするのは目の前の敵だけですので」
迷いのない声だった。
エレオノーラはその目を見た。
嘘はなかった。
この男は本当に政治に興味がない。
だが同時に、エレオノーラは不安を感じた。
不安ではなく、同情か。
目の前の敵。
最善の判断。
その二つだけを見ている人間ほど、危険なものはない。
なぜなら、その人間の力を他者が勝手に使いやすいからだ。
真っ直ぐな刃ほど、他人の鞘に収めやすい。
エレオノーラはそれを知っていた。
「そう……頑張りなさい」
それだけ言って、大会議室に入った。
ディートハルトは一人で廊下に残った。
来賓席の配置図が掲示板に貼り出されている。
武官長代理。
父の代理人。
名前が並んでいる。
俺の剣が、あの席に座る人間のために振られるなら、それは俺の剣ではない。
だがそんなことは起きない。
起きるはずがない。
目の前の敵と戦う。それだけだった。
掲示板から目を離し、迷いのない足取りで宿舎に向かった。
***
扉を閉め、一人になった。
運営書類の束を机に広げる。
各チームの物品登録、安全規定の最終確認、判定徽章の動作検証報告、来賓の座席配置……全てが規定通りであることを確かめる。
それが運営責任者であるエレオノーラの仕事だった。
Fチームの物品登録が目に入った。
控え室への物資保管申請。
来賓席の近くに物資を保管する。
なぜその場所を選んだのか。
異例ではある。
だが窓口の登録係は正しく処理している。
条項の根拠も記載されている。
規定の範囲内だ。
書類を束に戻した。
次に開いたのは、来賓席の配置図だった。
リヒトフェルデン王国の武官長代理。
ヴァルトシュタイン公国の外交官。
クレスヴァイン家の当主。
そして、父の代理人。
ペンが止まった。
父上がわざわざ代理人を送るからには、見物ではない。
何かを確認しに来る。
あるいは……
配置図を閉じた。
書類の束の中から、Fチームの物品登録をもう一度引き出した。
控え室の保管申請。
来賓席の近くに。
この申請を出した人間は、何を想定しているのだろう。
来賓席の近くに拠点を持つ意味を理解した上で、申請している。
自分と同じものを見ているのだとしたら?
エレオノーラは書類を束に戻した。
規定の範囲内のものを、運営責任者が止めることはできない。
運営責任者にできることは一つだけだ。
規定の内側を、歪めないこと。
書類の確認を再開した。
一枚ずつ。
丁寧に。
先ほどより少しだけ、手が遅くなっていた。
***
夜。
灰猫商会。
レイは壁に向かっていた。
鞄から今日の書類を出し、一枚ずつ壁に貼っていく。
物品登録の控え。
控え室の保管許可証。
配置図の最終版。
指揮継承の手順書の写し。
一枚貼るたびに、鋲を打つ。
小さな音がする。
「旦那、また壁が狭くなっていますが」
エルマが帳簿から顔を上げた。
「すみません。あと少しだけ」
「あと少しが積もって今の壁になった気がしますが」
エルマはそう言いながらも、帳簿のペンは止めなかった。
右手で数字を書きながら、左手で壁の紙片を一瞥する。
その目が、新しく貼られた「控え室保管許可証」の上で一瞬止まった。
「……控え室。来賓席の近くのですか?」
「ええ」
「ミラの話と繋がるんですね」
「はい」
エルマはそれ以上聞かなかった。
帳簿に向き直り、今日の取引の清算を再開した。
聞かないのは興味がないからではない。
聞かなくても分かるからだ。
帳簿番は数字を見れば、数字の向こう側にあるものが見える。
レイは鋲を最後の一本打ち、壁から一歩退がった。
紙片が並んでいる。
Fチーム28倍。
ファルニエ諸国同盟の存続年数。
地形図。
作戦案。
そして今日加わった書類。
物品登録の控え、保管許可証、配置図、手順書。
全てに承認印が押してある。
紅茶を淹れた。
振り返ると、窓際にミラが立っていた。
今夜は短刀を拭いていない。
代わりに小さな布包みを手にしている。
「……控え室の鍵」
布包みの中には鍵が一つと、紙が一枚。
紙には見取り図が描かれていた。
控え室の間取り。
入口、窓、廊下との位置関係。
来賓席までの距離が歩数で記されている。
字はない。
ミラは字を書かない。
図だけ。
だが線は正確で、距離の比率が狂っていなかった。
レイが今朝手続きで確保した場所を、ミラはもう歩いていた。
「……もう見に行ったんですね」
「仕事なので」
見取り図を壁に貼った。
紙片がまた一枚増えた。
「ミラ。明日、控え室に入ったら、来賓席の後ろを見てください。金が"勝たせるつもり"で動いているなら、人も動いているはずです」
「分かった」
「無理はしないでください」
ミラは答えなかった。
窓の外を見ていた。
エルマが帳簿を閉じた。
今日の清算が終わったらしい。
「旦那。明日の帳簿の準備はできてます。合同実習中のオッズの変動記録も、旦那の設定に合わせてガルドさんと二人で取りますから」
「ありがとうございます」
「変わらないものに関して議論する時間はありませんので」
レイは反論をやめた。
エルマは立ち上がり、帳簿を棚にしまった。
その手は安定していた。
何があっても数字を書き続ける手だった。
「おやすみなさい、旦那」
「おやすみなさい」
エルマは聞こえないふりをして出ていった。
ミラも窓際から離れ、音もなく部屋を出た。
一人になった。
紅茶を啜った。
カップは一つだけだった。
壁を見た。
紙片が並んでいる。
数字と図面と承認印。
明日、この壁の上の文字が、地面の上の現実になる。
灯りを落とした。
合同実習まで、あと一日。
***
合同実習前夜、ノックが聞こえた。
Fチームに用意された宿舎の扉だった。
マリエルが立っていた。
片手に小さな紙袋を持っている。
「差し入れ。みんなで食べて」
紙袋の中には焼き菓子が人数分入っていた。
その間に手紙が一枚挟まっている。
レイは受け取って開いた。
「文芸祭の出し物の打ち合わせ、来週に延期しておきました。セドリックにも伝えてあります。頑張ってね。マリエル」
灰猫も、オッズも、盤外介入も知らない人間の手紙だった。
日常を壊さずに持ってきた人間の手紙。
レイはその手紙を帳簿に挟まなかった。
鞄の外ポケットに入れた。
数字の世界の外に置いた。
「ありがとうございます、マリエルさん」
「うん……ちゃんと帰ってきてね」
振り返りかけて、止まった。
「最近目が赤いよ。ちゃんと寝てる?」
右目。
構造式を読んだ消耗が、充血として残っている。
マリエルは構造式を知らない。
知らないから「目が赤い」としか読めない。
読めないから……正しい。
「……寝不足です」
「無理はしないでね」
去っていった。
振り返りはしなかった。
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