第2話「九つの勝ち筋」
ハンスとは、顔合わせの翌日に話した。
講義後の移動経路を調べ、偶然に見える接触を設計した。
「ハンスさん。少しお時間をいただけますか。提案があります」
「……提案?」
「作戦案です。三試合分の地形ごとに三つずつ、合計九つの勝ち筋を用意しました」
ハンスの目が警戒した。
当然だ。
出席率二九%の文学科一年から「九つの勝ち筋」と言われて、何も感じない方がおかしい。
だが同時に、ハンスの中で何かが確かめられていた。
レイを見つめる目の奥には、疑いだけではなく、確認の色があった。
指揮官を務める男が、レイの力を測っている。
中庭のベンチで地形図を広げた。
九つの勝ち筋。
全てに配置案が紐づいている。
斥候二名、前衛四名、後衛一名、旗守備二名、伝令一名、指揮官と副官。
十二人の配置が地形ごとに変形し、どの勝ち筋を選んでも合理性を担保した。
ただし「合理性」は表向きだ。
本当のところは、ハンスが選ぶだろう選択肢を、全て先読みして用意してある。
自分の気質を知ることすら知らない男が、知らずに選ぶ道。
それをレイは三通り全て用意している。
指揮官の自由意志は、完全に尊重されていた。
その自由意志が選ぶ結果も、全て同じゴールに辿り着くように設計されていることを、ハンスは知らない。
ハンスは最初、理解しようとして聞いていた。
次に、理解が追いついて聞いていた。
最後には、黙って聞いていた。
理解できない部分を恥じるのではなく、理解できる部分を拾おうとしていた。
それは成績表に載る能力ではなかった。
器と呼ぶべきものだ。
「……こんなに考えるものなのか」
「三つ作って二つ捨てます。残った一つが最善かどうかは保証できません。ただ、三つの中で最善であることは保証できます」
「お前、本当に文学科か?」
「出席率は二九%ですが」
ハンスが苦笑した。
レイも笑った。
二人が初めて笑ったのは、作戦の話をしている最中だった。
それは運がよかったのではなく、必然だった。
地形図の上で笑える人間は、地形図の上で死ねる人間だ。
ハンスはまだその自覚がないかもしれない。
だがその笑顔は、すでに戦場の人間の笑顔だった。
レイは自分の冗談を言ったのではない。
ハンスの覚悟を見たのだ。
そしてその覚悟を確認できたから、笑えた。
笑いが引いた後、レイは声を落とした。
「一つだけ明確にしておきたいことがあります。指揮官はあなたです。僕は選択肢を並べるだけで、選ぶのはあなたの仕事です」
ハンスはレイの目を見た。
しばらく見ていた。
「……副官を引き受けてくれるなら、お前の案を使う」
「ありがとうございます」
頭を下げた。
下げている間、レイの目は地形図の上にあった。
どれを選んでも勝てるようにする。
それが副官の仕事だ。
***
夜の灰猫商会。
壁に並ぶ紙片の墨が、灯りの下でかすかに光っている。
エルマが新しい紙片を一枚貼った。
合同実習のオッズ最終更新。
Aチームの1.1倍を筆頭に、B、C、D、Eと倍率が開いていき、最下段のFチームだけが28倍という桁違いの数字を晒している。
「旦那、Aの倍率にまた大口が入りましたよ。ここ二日で三件。全部一括です」
「お願いします……あと、旦那はやめてください」
「変わらないことに関しては十分な統計データが出ているはずですが」
レイは反論をやめた。
統計を持ち出されると弱い。
紅茶のカップを手に取った。
だが口はつけず、壁のオッズ表を見つめている。
「Aチームのオッズが1.1倍まで下がっている。これは賭けではなく値札です」
「値札」
「ですが問題はもう一つあります。この金の動き方は"勝つと信じている"金ではなく、"勝たせるつもりがある"金です」
エルマの笑みが消え、帳簿番の目になった。
「……どう違うんです?」
レイは壁から賭け帳簿を取り、今週の入金記録を開いてエルマの前に広げた。
「Aチームへの大口。この三件を見てください」
指が三行を辿った。
入金日。
金額。
時刻。
「三件とも同じ曜日。時刻は全て午前中。金額は四〇〇、六〇〇、四〇〇。合計一四〇〇ディナール」
エルマの目が帳簿に落ちた。
「まず時刻です。三件とも午前中の同じ時間帯に入っている。一人の人間が三回に分けたなら、来店の間隔にばらつきが出る。三人の別人なら、同じ時間帯に揃う理由が要る。同じ指示系統の下で動いているなら、揃います」
エルマは黙ってそれを聞いた。
その目は帳簿の数字を読むように、レイの言葉を読んでいた。
帳簿番の目。
疑わしい金を見る目。
「次に金額。端数がないこと自体は珍しくありません。ただ、四〇〇、六〇〇、四〇〇——配分の比率が二対三対二と整っている。個人が三回に分けるなら等分するか、手持ちに応じて崩れる。比率が整っているのは、予算を配分した痕跡です」
エルマの指が帳簿の行を押さえた。
「……確かに分け方が綺麗すぎます」
「そして最後に、利益の問題です。Aチームは一・一倍。一四〇〇ディナール賭けても利益はわずか一四〇。賭けとしてはあまり割に合わない。おそらくこの金は利益を求めていません。賭けではなく値札なんです——Aチームが勝つという事実を、市場に書き込むための」
「なるほど」
「信じている金は利益を期待して入る。勝たせるつもりの金は利益を度外視して入る。つまり……彼らにはAチームが勝つための"仕組み"がある」
レイは壁のオッズ表を見た。
「賭場の大穴に金が入った時点で、これは競技ではなく市場です。値段がついた以上、商人の論理で動く」
沈黙が数秒あった。
エルマが帳簿をめくる音だけが響いた。
あの四〇〇〇ディナールを思い出した。
封筒の男。
あの金も一括だった。
フェリクスから得た外交情報がある。
Aチーム指揮官ディートハルト・フォン・リヒトフェルデンの無敗記録を、武官推薦の政治文書に添付する動き。
ディートハルトの勝利は個人の勝利ではない。
政治勢力の投資だ。
投資には保険が伴う。
「合同実習の会場は開放空間です。来賓席からフィールドまで遮蔽物はない。もし仕組みが試合の外にあるなら……」
壁際で、短刀を拭く手が止まった。
ミラ。
黒い外套に短い髪、表情のない顔。
いつからそこにいたのか、レイは気づいていなかった。
いつも通りだ。
火傷の残る右手で、短刀の刃を繰り返し拭いている。
血はついていない。
それでも拭く。
何を拭い取ろうとしているのかは、レイは聞かない。
「ミラ。合同実習の間、一つお願いがあります」
「……」
「試合場の外を見ていてください。僕は盤の上にいます。盤の外は、あなたにしか頼めません」
ミラが短刀の刃の拭き方を速めた。
その速さは、拭く理由がないことを示していた。
短刀を拭く手の速さ。
それはミラの感情を表す言語だった。
緊張。
確認。
準備。
手が速く動くほど、ミラはやることを整理していた。
「何を探す?」
「まだ分かりません。盤の外で何が動いているか、見ておいてください」
ミラが頷いた。
小さな動きだったが、それだけで十分だった。
「ありがとうございます」
レイが言うと、ミラの手が短刀の柄に触れた。
あの夜と同じ仕草。
「仕事です」と言った夜と。
今回は何も言わなかった。
だが柄に触れた手が、同じことを語っていた。
壁のオッズ表に目を戻す。
Fチーム28倍。
28倍とは、期待されていないという意味ではない。
誰も計算していないという意味だ。
計算されていない場所が一番動きやすい。
紅茶に口をつけた。
まだ温かかった。
***
顔合わせから三日目の夕刻。
合同実習まで残り二日。
演習棟の中庭で、トーマが一人で木剣を振っていた。
レイはそれを二階の窓から見ていた。
声をかけるつもりはなかった。
見るだけで十分だった。
振りは重い。
速さよりも重さに寄った剣筋。
だが重いだけではなかった。
一振りごとに止まる位置が正確で、刃先が描く弧の半径が毎回同じだった。
制御されている。
一つの弧が終わるたびに、腕の筋が微かに引き締まる。
止める方に力を使っている。
振る力ではなく、止める力。
それがこの男の剣だった。
百を数えたあたりで木剣を下ろした。
息は乱れていない。
中庭には他に誰もいなかった。
この時間帯、ここに人が来ないことを知っているのだろう。
一人で振れる場所を選んでいる。
選ばなければならない、という方が正しい。
レイの頭の中に、一つの数字が浮かんだ。
七分。
この男が全力で立てる時間。
相手が何人来ても、一つの場所を塞ぎ続けられる時間。
振りの重さ、制御の精度、回復までの呼吸の間隔。
全てを数えた。
正確には六分四十秒から七分二十秒。
誤差は体調と地形に依存するが、中央値は七分。
成績表にこの数字は載っていない。
百回の素振りから逆算し、レイだけが算出した数字だった。
去年の合同演習で、味方を怪我させた。
庇おうとして、手加減しきれなかった。
リーゼの言葉が重なった。
手加減しきれなかった。
つまり、手加減はしようとしたのだ。
この男は味方を壊そうとしたのではなく、守ろうとして守る力が強すぎた。
だから今も、止める稽古をしている。
振る稽古ではなく。
トーマが木剣を肩に乗せ、中庭を出ていった。
最後に一度だけ振り返り、自分が振った場所を見た。
何を確認したのかは分からない。
ただ数秒見て、背を向けた。
レイはノートを開いた。
トーマの名前の横に、「七分」と書いた。
演習成績でも出席率でも協調性の評価でもない。
この人間に渡すべき仕事の長さを示す数字だった。
帳簿の外にいる人間を、帳簿の中に戻す方法は一つしかない。
額面に見合う仕事を渡すことだ。
成績表に載る数字と、載らない数字がある。
だが数字には載らずとも記録できるものがある。
歩幅、扉をくぐる時の肩の引き方、指先が紙を折り直す角度。
形だ。
形で記録すれば、数字では拾えないものが拾える。
ただし形を正確に記録する人間を、レイはまだ知らなかった。
全力を出していいと言えるだけの仕事を。
手加減が要らない場所を。
自分にしか、それを言える人間がいないのなら。
ノートを閉じ、窓から離れた。
毎日21時更新です!




