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第1話「帳簿に載らない名前」

 紙片を壁に押しつけ、鋲を打った。


 鋲の頭は古い銅色。

 何度も叩かれた鎚の音が、この板に残っている。


 木の繊維が圧縮されているから、鋲を打つたびに軋む音が返ってくる。

 その音を聞くのは、レイの習慣だった。


 壁が何を記録したかを、音で確認する。

 今日の音は、いつもより高かった。


 『Fチーム28倍』


 灰猫商会の壁。

 焦げた板を新しい板に替えてから、紙片が隙間なく貼られている。


 壁の匂いは、新しい木と古い墨の混合だ。

 新しい板から立ち上る樹液の香りと、何年も紙に沁みた黒インクの匂い。

 レイはその匂いを嗅ぐたびに、自分が何をしているのか思い出す。


 数字を壁に留めること。

 記録すること。

 壁が担う重さ。


 今夜、新しい一枚が加わった。

 「ファルニエ諸国同盟の存続年数」の隣に「Fチーム28倍」が並ぶ。


 どちらの紙片も、数字の横に余白がある。

 片方はまだ数字が入っていない。

 もう片方は、数字を入れたばかりだ。


「旦那、それ本気ですか」

 エルマが帳簿から顔を上げた。


「本気も何も、数字は数字です」

「自分のチームにつける数字としては、ずいぶん大きいですけど」

「大きいから動きやすいんです。それに学院での自分を客観的に見ればこんなものです」


 合同実習まで、あと五日。


 十二人。

 四学科混成。

 指揮官一名、副官以下は指揮官の裁量。


 メンバーの名前と数字を全て足し合わせれば、28倍というオッズに妥当な顔ぶれだった。

 もちろんレイ自身の数字も含めてのこと。

 出席率二九%の文学科一年を算入すれば、むしろ28倍は甘いかもしれない。


 合計値の外に、帳簿に載りきらない名前が二つある。

 明日の顔合わせで、初めて会う。


 28倍という数字を自分で書いた。

 自分を含めて計算した数字だ。

 つまりこれは、自分自身につけた値札でもある。


 自分で自分につけた値札を、自分で覆す。

 それが合同実習の本当の賭けだった。


 28倍の数字を見ていると、別の顔が浮かんだ。

 隣の壁に貼ったBチームのオッズ表。

 ジュリアスの名前がある。


 あの男の数字は、合計値の中にいると高くならない。

 合計の外、予測の外側にこそ価値がある。

 数字に載らない人間の価値を数字で扱う仕事は、たまに自分が嫌になる。


 紅茶を淹れた。

 葉をポットに入れてから湯を注ぐまで、十五秒待つ。


 それが正しい時間だ。

 だが今夜は十二秒で注いでしまった。


 焦っていた。

 いや、焦っているのではなく、計算の優先順位が変わっていた。


 紅茶よりも、五日後のことの方が重い。

 カップに口をつけると、ぬるかった。

 舌の上で茶葉の苦さが十分に抽出されておらず、八十五度程度の湯で淹れた未完成の味が口腔に広がる。


 最適温度との誤差は七度といったところだろうか。

 小さな数字だが、紅茶にとっては決定的だった。


 淹れ直そうとした手が、途中で止まった。

 明日は盤の上に立つ。

 温かいものを味わっている余裕はない。

 冷めた紅茶を飲み干し、舌が抵抗する味を、レイはそのまま受け入れた。


 今回勝つべきは、演習そのものではない。

 盤上の勝敗を動かす盤外の手だ。


 そして、自分一人では届かない場所を、誰の手で埋めるか。

 それが本当の問いだった。


 ***


 レイはエルマを見た。


「この伝票、ファインヘルムじゃない。似せてるけど、漉きが浅い」


 帳簿の横に置かれた伝票用紙をエルマが手にしていた。

 紙を光に透かしている。

 その仕草は、会計報告ではなく、鑑定だった。


 プロの仕草。

 光の中で、紙の繊維の密度が見える。

 良い紙は光を通す時も、光を返す時も、その品質を隠さない。

 偽造品や安物は、光にかざると紋理が乱れて見える。


「紙工房の話ですか」

「ファインヘルムは目の細かさが違う。この品質なら南部製。帳簿番は紙にうるさいんです」


 レイは最初、エルマの言葉を軽く受け流していた。

 帳簿番は紙にうるさい。

 単なる職業的な習性だと思っていた。


 だがそれは違った。

 帳簿番は単に紙の品質を見分けるだけではない。

 その紙が、どこから来て、どれだけの価値があるかを、一瞬で判断する。


 それはレイの数字の読み方と同じだった。

 ただし媒体が違うだけだ。


 レイは聞き流した。

 帳簿番は紙にうるさい。

 それだけのことだと思っていた。


 出発の朝、エルマが鉛筆を一本差し出した。


「合同実習で壁はないから、これに書いてください」


 受け取ると、鉛筆の先端がすでに削られていた。

 エルマの削り方で。


 芯の先を斜めに落とす、独特な角度。

 帳簿の細かい数字を書く時に最適な削り方だった。

 レイは一瞬それを見た。


「ありがとうございます」


 鉛筆を胸ポケットに入れた。

 灰猫の道具を持って、戦場に立つ。


 ***


 顔合わせの部屋は、学院第三演習棟の小さな会議室だった。


 十二人が揃うには手狭で、椅子が足りない者は壁際に立っている。

 指揮官のハンス・ベルガーが正面の机を背に立ち、メンバー表を手に一人ずつ名前を読み上げていた。


 軍学科二年。

 成績は中の下だが、声は落ち着いている。

 ただし指先が紙の端を何度も折り直しており、緊張を隠しきれてはいなかった。


 読み上げる順番に癖があった。

 軍学科の前衛から呼ぶのが普通だが、ハンスは後衛から呼んでいる。

 守備から組み立てる人間の発想だ。


 レイはその順番を聞きながら、心の中でハンスの名前の横に小さな印をつけた。

 成績表には載らない種類の情報だった。


 部屋の隅に立ち、読み上げられる名前と顔を照合していく。

 軍学科の前衛四名のうち二名は成績表通りの顔をしており、残る二名も誤差の範囲だった。


 商学科二名、文学科は自分を含めて三名。

 帳簿に並べれば、どこから見ても最下位候補の顔ぶれだ。


 商学科のカールが名前を呼ばれた時、返事と同時に部屋を見回した。

 人数ではなく、椅子の数を数えている。


 座れない人間が何人いるか、名前より先に把握しようとしていた。

 数え終えたカールは、立っている人間のほうには目を向けなかった。


 物の過不足を先に見る。

 エルマと同じ匂いがした。

 カールの名前の横に、小さな記号を置いた。

 「勘定ができる」。


 文学科のベアトリスは返事が一拍遅れた。

 聞こえなかったのではない。

 ハンスの顔を見ていたからだ。


 名前を読み上げる声だけではなく、読み上げる人間の表情まで確認している。

 言葉より先に目を使う人間の癖だった。


 十一人目の名前が呼ばれた時、壁に寄りかかって腕を組んでいた男が返事をしなかった。


「トーマ」

 ハンスがもう一度呼んだ。


「……聞こえてる」

 声だけが返った。


 軍学科二年。

 トーマ。


 個人戦闘の実技評価だけが異常に高く、集団行動の評価は最低に近い。

 所見欄には毎期同じ一行が並ぶ。


 「協調性に欠ける」。


 レイは成績表の数字ではなく、トーマの体を見ていた。


 腕を組んだ姿勢。

 重心は左足。

 壁に預けているように見えて、実際には壁から数寸離れている。


 いつでも動ける位置だった。

 警戒ではない。

 ただ立っているだけで、そうなる体だった。


 壁との距離が正確だった。

 寸分の揺れもなく、同じ間隔を保っている。


 無意識にこの精度を出せる人間は、自分の体の寸法を骨の一本まで知っている。

 そして、その知識を活かすことを、何度も練習した人間だ。


 レイが見たのは、成績の「協調性に欠ける」という所見ではない。

 去年の合同演習で味方を怪我させた男が、今もまだ自分の力を計測し続けている姿だった。


 同じ距離を何度も取り直す。

 同じ力加減で幾度も繰り返す。


 自分の全力が、どこからが他者を傷つけるのか。

 その境界線を、身体で覚え直そうとしている男。


 ハンスが「協力してくれるか」と聞いた時、トーマが答えなかったのは、答えられなかったのではなく、判断を保留していたのだ。

 ハンスが率直に聞いた。


「協力してくれるか」

「命令が合理的ならな」


 それだけだった。

 肯定でも否定でもない。

 嘘でもない。


 他のメンバーの視線が、トーマを避けていた。

 見てはいる。

 だが目を合わせない。

 何かを知っている空気だった。


 顔合わせが終わり、メンバーが三々五々散っていく。


 トーマは最後まで壁際にいた。

 名前を呼ばれて返事をした以外、一言も発していない。

 全員が席を立ち始めてようやく腕を解き、誰にも声をかけず部屋を出ていく。


 その時、レイは見た。

 トーマが扉の枠をくぐる際、十分な幅があるにもかかわらず無意識に肩を引き、身体がひとまわり小さく縮んだのを。


 入口の近くにいたリーゼが、レイの視線に気づいたらしい。

 小声で言った。


「去年の合同演習で、味方を怪我させたんです」


 法学科一年。

 リーゼ。


 メンバー表を見た時に「Fチーム、つまり最後のアルファベットですね」と苦笑した女子学生だ。

 成績はそつなく纏まっている。

 あの苦笑には諦めが混じっていたが、投げ出す色はなかった。


「庇おうとして……手加減しきれなかったらしくて」


 感情を挟まない。

 事実だけを渡す言い方だった。


「それで誰も引き取らなかった」

「教官も扱いかねたのか、結局こちらに」


 レイはトーマが出ていった扉を見た。

 枠をくぐる時に肩を引いた、あの仕草を思い出す。


 腕を組んでいたのは、威嚇ではない。

 距離を取っていたのだ。


 額面が大きすぎて流通できない紙幣。

 どの店に持ち込んでも「扱えない」と言われる。


 額面に見合う仕事を渡せば、動く。


 レイは鞄を持ち直し、部屋を出た。

 廊下の先にトーマの背中が見えた。


 歩幅が一定だった。

 急いでいない。

 だが誰かを待ってもいない。


 追いついた。

 追いつかれたことに、トーマは気づいていたはずだ。


 だが足を止めなかった。

 レイは並んで歩きながら、声をかけた。


「トーマさん。一つ、聞いてもいいですか」


 返事はなかった。

 歩幅が変わらなかったのが、聞いている証拠だった。


「さっき部屋の中で、壁との距離が一定でした。寸分の揺れもなく」


 トーマの歩幅が、一歩分だけ短くなった。

 止まってはいない。だが聞き方が変わった。


「あの精度を出せる人間を、成績表の数字だけで扱いたくありません。配置はまだ何も決まっていませんが、あなたに渡すべき仕事があると思っています」


 沈黙が数秒あった。廊下を別の学生が通り過ぎていく。


「命令か」

「挨拶です。今の僕はただの文学部のチームメイトに過ぎませんので。ただ……一つだけ先に伝えておきたかった」


 トーマが初めて、横目でレイを見た。

 値踏みではなかった。この人間が本気で言っているかどうかの、確認だった。


「僕が考えている仕事をお願いする際は、手加減は要りません」


 トーマの足が止まった。

 振り返らなかった。ただ、止まった。


 数秒。

 長い数秒だった。

 それだけ聞いて、トーマは歩き出した。


 三歩目で振り返りかけた。

 振り返らなかった。


 レイは追わなかった。

 追えば消えるものがある。

 遠ざかる背中の肩が半寸だけ低く、それは力を抜いた人間だけが見せる傾きだった。


 肩が低い。

 つまり、全ての力が下に落ちている。


 足に。

 地面との接地に。


 レイは背後を振り返り、様子をうかがっていた女性に声を掛ける。


「リーゼさん」

「はい」

「少し時間をもらえますか。見せたいものがあります」


 鞄から地形図を取り出した。

 二枚。

 合同実習で使用される三試合のうち二試合分の地形が、それぞれ細かく書き込まれている。


 リーゼの顔から苦笑が消えた。

 代わりに浮かんだのは、別の表情だった。


「……二試合分ですか。残りの一枚は」

「まだ詰めています」


 リーゼが地形図に身を乗り出した。

 目の動きが速い。


 全体を見てから細部に入り、細部から全体に戻る。

 それは地図の読み方ではなく、戦場の見方だった。


 等高線を指でなぞり、斥候の配置候補を自分で見つけた上で、レイが書き込んだ位置と照合していた。

 その目は、「Fチーム、つまり最後のアルファベットですね」と苦笑していた女子学生のものではない。

 戦場で生き残るための目だった。


「……商学科の方ですか?」

「文学科です」

「文学科でこれを」

「出席率は二九%ですが」


 リーゼが一瞬言葉に詰まった。

 すぐに地形図に目を戻す。

 疑問より情報を選ぶ人間だった。


 リーゼが去った後、レイは一人で地形図を畳んだ。

 そして鞄の底から、三枚目を出した。


 リーゼには見せなかった地形図。

 最悪の地形。

 勝ち筋が最も少ない盤面。


 この三枚目が当たった時のために、帳簿の隅にもう一つ、数字を置いてある。

 誰にも見せていない数字だ。


 使わなければそれでいい。

 使う日が来なければ、この数字は帳簿の隅で眠ったまま消える。


 だが使う日が来た時……この数字だけが味方になる。


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