表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/67

第26話「条文集の影」

 廊下ですれ違った誰かの視線を、背中に感じた気がした。

 だが振り返らなかった。


 図書館の閲覧席。


 ナディアは自治法の条文集を開いていた。

 第14条のページに、付箋が挟んである。もう何度目か分からない。


 自治管理局の公開記録には「メルヴィス所在の商会からの申立」と適用条文しか記されていない。


 灰猫商会。

 だがナディアは条文集と公開記録を突き合わせ、そこから逆算を始めていた。


 14条の一号で営業停止を引き出すために必要な証拠の要件。

 三号で処分を確定させるための立証の段階。

 提出すべき書類の分類と順序。


 公開記録に載っていない証拠の中身を、ナディアは条文の構造から推理していた。

 浮かび上がった絵は、非の打ちどころのない手続きだった。

 帳簿と法律で商社を止めている。


 条文の余白に、自分が以前書き込んだメモが残っている。

 『灰猫商会に対する適用可能性なし。営業登記は合法』


 同じページの、同じ条文。

 ナディアが灰猫を告発するために調べ、使えないと判断した法律を、灰猫が自らを守るために使っていた。


 これを書いた人間は、法を「読んでいる」のではなく「使っている」。

 その思考が浮かんだ瞬間、ナディアは自分の手が条文集を強く握っていることに気づいた。


 閲覧室の奥に、研究棟へ続く暗い回廊がある。

 許可証がなければ入れない区画。

 通常の学生は立ち入らない。


 足音がした。

 軽い、だが迷いのない足音。


 ナディアは顔を上げた。


 閲覧室を横切って、研究棟の回廊に入っていく背中が見えた。

 見覚えのある背中だった。

 小柄で、外套の袖が少し長くて、いつも教室の後方の窓際に座っている。


 ラマリン。


 許可証がなければ入れない区画に、出席率29%の男が、何の躊躇もなく入っていく。

 回廊の奥で扉が開く音がした。


 低い声が聞こえた。

 誰かがいる。

 彼を待っていたのだ。


 扉が閉まった。


 ナディアは条文集に目を戻した。

 だがペンを持つ手が、少しだけ強くなっていた。


 今日、渡り廊下で女子学生たちの声が聞こえた。


「灰猫商会って、裏社会と繋がってるって噂だったのに、店を焼かれて法律で相手を潰したらしいわ」

「しかもあの店、すぐ別の場所で再開するって話みたい」


 聞くつもりはなかった。

 だが聞こえてしまった。


 情報屋の噂ではない。

 それとは別の噂。

 焼かれても法律で返したという噂の方が、ナディアの足を止めた。


 ノートの隅に、以前書いた一行がある。

 『ラマリンとの関係——要調査』


 その下に、管理局で書き加えた一行。

 『店を焼かれた。直接暴力で返さなかった——なぜ?』


 今日、もう一行書き加えた。

 『第14条。同じ条文。同じ使い方。なぜ同じなのか』


 書いてから、ペンを止めた。

 答えを書こうとした。


 でも書けなかった。


 ペンを置き、条文集を閉じた。

 閉じた表紙の上に、手を置いた。


 許せないものが、許せない方法で正しいことをしている。

 許せないものが、自分と同じ道具を握っている。

 その事実に名前をつけられないことが、何より苛立った。


 その底に、別のものがある。

 ナディアはそれを見なかった。


***


 研究棟。

 本と紙に埋もれた部屋は、前に来た時と変わっていなかった。

 机の上にも、床にも、窓枠にすら文献が積まれている。


 薄い埃と古紙の匂い。

 時間が堆積した匂いだった。


 ただ一つ、机の上に新しい本が一冊だけ置かれていた。

 背表紙に「閲覧制限・第二種」の印が押されている。


 エルヴィン・アズウォードは顔を上げなかった。


「遅い。約束は放課後だと言った」

「すみません、講義が長引きまして」

「出席率29%の人間に講義を言い訳にされるのは新鮮だな」


 レイは机の上の本を見た。

 『同盟形成期の諸国文書集成・下巻』


 前回借りた上巻は6章までだった。

 今日はその続きとなる7章。


「座りなさい。そしてここで読みたまえ。持ち出しは許可していない」


 エルヴィンはそれだけ言って、自分の文献に戻った。

 レイは椅子を引いて座り、7章を開いた。


 同盟形成期における三国の軍事演習と人材評価制度。


 手が止まった。


 200年前の三家が、合議体制の初期に何をしたか。

 それは軍事演習を通じた人材の品定めだった。

 合同実習の原型が、ここにある。


 ページをめくった。

 文中に、薄く線が引かれている箇所があった。

 古い線だ。インクが茶色く変色している。


「……これは」

「前の閲覧者の痕跡だ。線を引くことを許可した代わりに、敢えて消すなと言ったものだ」


 エルヴィンの声は平坦だった。

 前の閲覧者は……サクラ。


 それは母の名前だった。


 レイは線の引かれた箇所を読んだ。

 三家が演習を通じて人材を選別し、その選別が後の同盟の権力構造を決定づけたという記述に、細い線が引かれていた。


 レイはペンを取らなかった。

 母が線を引いた場所に、自分の痕跡を重ねる気にはなれなかった。

 だが……内容は頭に入れた。


 もう一つ、気づいたことがあった。

 ページの角が折られている。しおりの代わりに角を折る癖。


 レイにも同じ癖がある。知らなかった。

 角が折られたページには別の記述があった。


 『同盟の前身となった連合体が崩壊した際、その崩壊を最初に予測した記録官は、予測を記録に残さなかった。残さなかった理由は不明である』


 予測できたのに書かなかった記録官。

 白紙の紙片を壁に貼ったまま数字を入れない自分と、何が違うのか。


 その問いも、帳簿には書かなかった。


「7章は読み終えました」

「8章以降は来月だ。制限が一段上がる」


 レイは頭を下げた。


「エルヴィン先生」

「何だ?」

「母はこの本を……どこまで読んだのですか」


 エルヴィンは答えなかった。

 長い沈黙があった。


「最後まで」


 それだけだった。


 レイは研究棟を出た。

 回廊を抜け、閲覧室を通り過ぎる。


 閲覧室の席に、さっきまで誰かが座っていた痕跡があった。

 条文集が棚に戻されている。


 椅子は少しだけ引かれたままだった。


毎日21時更新です!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ