第26話「条文集の影」
廊下ですれ違った誰かの視線を、背中に感じた気がした。
だが振り返らなかった。
図書館の閲覧席。
ナディアは自治法の条文集を開いていた。
第14条のページに、付箋が挟んである。もう何度目か分からない。
自治管理局の公開記録には「メルヴィス所在の商会からの申立」と適用条文しか記されていない。
灰猫商会。
だがナディアは条文集と公開記録を突き合わせ、そこから逆算を始めていた。
14条の一号で営業停止を引き出すために必要な証拠の要件。
三号で処分を確定させるための立証の段階。
提出すべき書類の分類と順序。
公開記録に載っていない証拠の中身を、ナディアは条文の構造から推理していた。
浮かび上がった絵は、非の打ちどころのない手続きだった。
帳簿と法律で商社を止めている。
条文の余白に、自分が以前書き込んだメモが残っている。
『灰猫商会に対する適用可能性なし。営業登記は合法』
同じページの、同じ条文。
ナディアが灰猫を告発するために調べ、使えないと判断した法律を、灰猫が自らを守るために使っていた。
これを書いた人間は、法を「読んでいる」のではなく「使っている」。
その思考が浮かんだ瞬間、ナディアは自分の手が条文集を強く握っていることに気づいた。
閲覧室の奥に、研究棟へ続く暗い回廊がある。
許可証がなければ入れない区画。
通常の学生は立ち入らない。
足音がした。
軽い、だが迷いのない足音。
ナディアは顔を上げた。
閲覧室を横切って、研究棟の回廊に入っていく背中が見えた。
見覚えのある背中だった。
小柄で、外套の袖が少し長くて、いつも教室の後方の窓際に座っている。
ラマリン。
許可証がなければ入れない区画に、出席率29%の男が、何の躊躇もなく入っていく。
回廊の奥で扉が開く音がした。
低い声が聞こえた。
誰かがいる。
彼を待っていたのだ。
扉が閉まった。
ナディアは条文集に目を戻した。
だがペンを持つ手が、少しだけ強くなっていた。
今日、渡り廊下で女子学生たちの声が聞こえた。
「灰猫商会って、裏社会と繋がってるって噂だったのに、店を焼かれて法律で相手を潰したらしいわ」
「しかもあの店、すぐ別の場所で再開するって話みたい」
聞くつもりはなかった。
だが聞こえてしまった。
情報屋の噂ではない。
それとは別の噂。
焼かれても法律で返したという噂の方が、ナディアの足を止めた。
ノートの隅に、以前書いた一行がある。
『ラマリンとの関係——要調査』
その下に、管理局で書き加えた一行。
『店を焼かれた。直接暴力で返さなかった——なぜ?』
今日、もう一行書き加えた。
『第14条。同じ条文。同じ使い方。なぜ同じなのか』
書いてから、ペンを止めた。
答えを書こうとした。
でも書けなかった。
ペンを置き、条文集を閉じた。
閉じた表紙の上に、手を置いた。
許せないものが、許せない方法で正しいことをしている。
許せないものが、自分と同じ道具を握っている。
その事実に名前をつけられないことが、何より苛立った。
その底に、別のものがある。
ナディアはそれを見なかった。
***
研究棟。
本と紙に埋もれた部屋は、前に来た時と変わっていなかった。
机の上にも、床にも、窓枠にすら文献が積まれている。
薄い埃と古紙の匂い。
時間が堆積した匂いだった。
ただ一つ、机の上に新しい本が一冊だけ置かれていた。
背表紙に「閲覧制限・第二種」の印が押されている。
エルヴィン・アズウォードは顔を上げなかった。
「遅い。約束は放課後だと言った」
「すみません、講義が長引きまして」
「出席率29%の人間に講義を言い訳にされるのは新鮮だな」
レイは机の上の本を見た。
『同盟形成期の諸国文書集成・下巻』
前回借りた上巻は6章までだった。
今日はその続きとなる7章。
「座りなさい。そしてここで読みたまえ。持ち出しは許可していない」
エルヴィンはそれだけ言って、自分の文献に戻った。
レイは椅子を引いて座り、7章を開いた。
同盟形成期における三国の軍事演習と人材評価制度。
手が止まった。
200年前の三家が、合議体制の初期に何をしたか。
それは軍事演習を通じた人材の品定めだった。
合同実習の原型が、ここにある。
ページをめくった。
文中に、薄く線が引かれている箇所があった。
古い線だ。インクが茶色く変色している。
「……これは」
「前の閲覧者の痕跡だ。線を引くことを許可した代わりに、敢えて消すなと言ったものだ」
エルヴィンの声は平坦だった。
前の閲覧者は……サクラ。
それは母の名前だった。
レイは線の引かれた箇所を読んだ。
三家が演習を通じて人材を選別し、その選別が後の同盟の権力構造を決定づけたという記述に、細い線が引かれていた。
レイはペンを取らなかった。
母が線を引いた場所に、自分の痕跡を重ねる気にはなれなかった。
だが……内容は頭に入れた。
もう一つ、気づいたことがあった。
ページの角が折られている。しおりの代わりに角を折る癖。
レイにも同じ癖がある。知らなかった。
角が折られたページには別の記述があった。
『同盟の前身となった連合体が崩壊した際、その崩壊を最初に予測した記録官は、予測を記録に残さなかった。残さなかった理由は不明である』
予測できたのに書かなかった記録官。
白紙の紙片を壁に貼ったまま数字を入れない自分と、何が違うのか。
その問いも、帳簿には書かなかった。
「7章は読み終えました」
「8章以降は来月だ。制限が一段上がる」
レイは頭を下げた。
「エルヴィン先生」
「何だ?」
「母はこの本を……どこまで読んだのですか」
エルヴィンは答えなかった。
長い沈黙があった。
「最後まで」
それだけだった。
レイは研究棟を出た。
回廊を抜け、閲覧室を通り過ぎる。
閲覧室の席に、さっきまで誰かが座っていた痕跡があった。
条文集が棚に戻されている。
椅子は少しだけ引かれたままだった。
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