第27話「28倍」
合同実習まで、あと7日。
秋の風が中庭を横切り、掲示板の紙を鳴らしていた。
朝の掲示板の前には、既に人だかりができていた。
合同実習の詳細日程と演習規則が追加掲示されている。
レイは人垣の後ろから、背伸びもせずに内容を読んだ。
身長がないぶん、隙間を読むのは得意だった。
演習形式は模擬戦。
初日にくじ引きで対戦組み合わせを決定。トーナメント方式で3日間。
勝利条件は二つ。
敵陣の旗を奪い自陣に持ち帰るか、相手チーム全員の判定徽章を赤点灯させるか。
制限時間内に決着がつかなければ残存戦力と旗への到達度で判定。
そして来賓として三国代表、同盟議会随員、各領主府随行という記載があった。
具体的な来賓の名前は記載されていない。
掲示の下半分には、チーム別の集合日程と初日の召集場所が並んでいた。
AチームからHチームまで、八つの枠。
三国の代表が来る。
つまりこれは成績評価ではなく品定めだ。
Fチーム28倍。
この掲示板の前に集まっている学生たちの中に、28倍に賭ける人間はいないだろう。
当然だ。
大穴が好きな人間以外、誰も金をドブに捨てたくなどない。
人垣が動いた。
レイは離れかけて、視界の端に一つの動きを捉える。
法学科の制服を着た1年生の女子学生。
人垣に向かって歩いてきたが、正面からは入らなかった。
二秒ほど人の流れを見てから、左側の隙間を抜けて掲示板に辿り着いている。
掲示板の前で立ち止まると、メモを取り始めた。
勝利条件、制限時間、来賓の構成。
要点だけを、迷いのない筆記で。
レイはその手つきを見て、一つだけ思った。
あの書き方は、情報を自分のために整理している手つきではない。
誰かに伝えるための手つきだ。
メモを書き終えた後、彼女の目はチーム別の集合日程に移った。
視線が止まったのは、Fチームの欄だった。
それから彼女は混雑の中をすり抜けるように離脱していった。
足が速いわけではない。
周囲の動きを見てから動いている。
名前は知らない。
だがFチームの名簿に、法学科1年の名前が一つある。
掲示板から離れながら、一つだけ気になったことがある。
掲示板の右下に小さく「合同実習運営責任者:自治会長エレオノーラ・リヒトフェルデン」と記されていた。
本家と分家の関係にあるとは言え、審判と本命が同じ家の名前を持つ。
制度上、運営と評価は分離されている。
だがオッズメイカーは、建前を建前のまま放置しない。
昼休みの研究棟の渡り廊下。
フェリクス・ゼノアが、窓枠に腰かけて本を読んでいた。
あの時と同じくページは動いていなかった。
「フェリクスさん」
「やあ、久しぶり。元気だった?」
フェリクスの声は軽い。
だが目は本から上がらなかった。
廊下に他の学生がいないことを確認する間だった。
人の気配が遠ざかってから、フェリクスは本を閉じた。
「朝凪の子供たちは」
「元気ですよ。修繕も進んでいます」
フェリクスが頷いた。
メルテン紛争の経緯は、情報交換の中で既に共有してある。
「それで合同実習ですが……」
フェリクスが窓枠から降りた。
レイの隣に並ぶ。背丈はほぼ同じで、外套が少し大きい。
「君のFチームは28倍だったね」
「はい」
「そして僕のDチームは7倍。どちらも期待されていないチームだ」
フェリクスが微かに笑った。
「人質と落ちこぼれ。学院にとって、どちらも余り物だね」
「ええ、でも余り物には余り物の利点があります。少なくとも誰も警戒しない」
フェリクスの笑みが変わった。
軽さが消えて、考える目になった。
「警戒されない、か……それで言うと、一つ面白い話がある」
フェリクスが声を落とした。
「ゼノアの書簡便に、外交筋から情報が来た。合同実習の結果に、リヒトフェルデン本家が関心を持っているらしい。ディートハルトの成績を『公式の実績』として同盟議会に提出する準備が進んでいる、と」
レイの指が、手すりの上で止まった。
「同盟議会に? たかだか学生の成績が?」
「ああ、三国の武官推薦枠。議会の承認が必要なんだけど、承認の判断材料に合同実習の成績が使われる。つまり——」
「ディートハルトの合同実習無敗は、学院の記録ではなく、同盟の政治文書になる」
風が渡り廊下を吹き抜けた。
レイは黙った。
灰猫のオッズには、この情報がなかった。
Aチームへの組織的賭け金の意味は読んでいた。
だが金の流れの先が同盟議会の人事に繋がっているとは、灰猫の窓からは見えなかった。
そしてフェリクスの窓には、それが見えていた。
「……灰猫のオッズにも同じ絵が見えています。Aチームに組織的な大口が入っている」
「賭けの形で実績を確定させにきてる?」
「金の流れは意志の流れです。そして誰かが『ディートハルトを勝たせる』と決めて動いている」
フェリクスが窓の外を見た。
中庭の木が風に揺れている。
「外交情報と灰猫のオッズが、同じ絵を指してるわけだ」
「ただし窓が違う。フェリクスさんの窓からは政治が見えて、灰猫の窓からは金が見える。重ねると」
「立体になる」
だがその立体像が見せているものは、レイの顔つきを変えた。
「メルテンは商人でした。帳簿の不正を突けば倒せた。だがこれは帳簿と法だけでは届かない」
「チンピラの次は商人だった。商人の次は——」
「政治です」
レイはそう言い切った。
数字の向こう側に、意志が見え始めている。
誰が、何のために、ディートハルトを勝たせたいのか。
そしてその勝利が、同盟の何を変えるのか。
フェリクスが小さく笑った。
今度の笑みには、取引相手を認める響きがあった。
「合同実習で僕に何かできることは?」
「今のところは何も。ただDチームの指揮官の傾向を教えていただけると。トーナメントの組み合わせ次第では、当たる可能性がありますので」
フェリクスが目を細めた。
「自分のチームの勝ち筋を計算してるのかい。28倍のチームで」
「オッズメイカーの癖ですよ。手札が配られたら、まず確率を出す。そしてもしゲームに不正な介入があれば……」
そこまで口にしたところで、レイは言葉を止める。
そしてそのまま彼はゆっくりと歩き出す。
すると、その背に向かって声がかかった。
「なるほど、28倍か。僕なら賭けるかもしれないな」
レイは足を止めなかった。
だがその言葉は、確かに聞こえていた。
渡り廊下にフェリクスが残された。
細い背中に、風が外套を煽っていた。
フェリクスは本を開き直したが、ページは進まなかった。
しばらくして本を閉じ、外套の内側から便箋を取り出した。
宛名を書く。
手が一瞬だけ止まったが、すぐに書き終えた。
宛名は父の名前ではなかった。
午後の講義は軍学科との合同授業だった。
教室に入ると、空気が異なる。
合同実習が近いせいだろう。
チームメイトの名前を確認し合う声。
対戦相手を予測する声。
黒板のチョークの粉が、午後の陽に白く漂っていた。
学生たちの視線が、自然と一つの方向に集まる。
ディートハルト・リヒトフェルデン。
合同実習無敗を誇るAチーム指揮官。
教室の最前列中央に陣取り、背筋の伸びたその長身と短く整えた金髪は明らかに人目を引いた。
ディートハルトは教科書を広げていたが、周囲の視線を気にした様子はなかった。
本命は本命の顔をしている。
だがフェリクスの情報を重ねると、あの背筋の正しさの向こうに、別の構造が見えてくる。
ディートハルト自身が政治を意識しているかどうかは分からない。
だがディートハルトの勝利を政治に変換しようとしている人間が、確実にいる。
その3席後ろに、ナディアが座っている。
Cチーム。
5.2倍。
Cチームの指揮官候補だった軍学科二年が実習中の負傷で辞退し、指揮実技の序列で繰り上がった一年生。
異例ではあるが、指揮演習の評価は二年生の平均を上回っている。
オッズはその繰り上がりを織り込んだ上での5.2倍だ。
ディートハルトは前を向いている。
ナディアも前を向いている。
ナディアの姿勢が少しだけ硬い。
その距離を、実力で埋めようとしている。
レイは教室の後方に座った。
窓際のいつもの席。
そしてジュリアスが、右隣のベンチに座った。
「Aチームとはやりたくないな」
ジュリアスが小さく言った。
Bチーム。3.5倍。
「トーナメントの組み合わせ次第ですね」
「お前はFチームだろ……怖くないのか」
「怖いという感情が結果を変えるなら、怖がる価値はありますが」
ジュリアスが呆れた顔をした。
「お前、たまに人間じゃないこと言うよな」
「よく言われます」
教官が入ってきた。
講義が始まる。
窓の外で風が木の葉を散らしていた。
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