第25話「同じ武器」
渡り廊下の先に影があった。
壁に寄りかかるでもなく、ただまっすぐに立って待っていた。
ナディアだった。
あの日と同じだ。渡り廊下で、人のいない時間を選んでいる。
だが今日の目は、あの日とは違っていた。
「ラマリン」
怒りではなかった。
問い詰める声でもなかった。
確認する声だった。
「14条を使ったのは、あなたですね」
レイの足が止まった。
「自治管理局の公開帳簿を確認しました。メルテン商会への営業停止処分、適用条文は一四条。放火届出と処分申請の受理が同日。そして処分の発効」
ナディアの声は整然としていた。
あの日の震えはない。
「あの処分をすぐに引き出すには、殴られる前から証拠を揃えていなければ不可能です」
レイは黙って聞いていた。
「そして証拠の組み方に、法学系の人間の匂いがしない。あの申立は帳簿の数字を法律の要件に翻訳したものです。法律を道具として使っているけれど、法律の側から組み立てた論理ではない」
ナディアが一歩、近づいた。
「帳簿を読める人間が、法律を読んだ。あなたの講義での答え方と同じです。構造を読んで、自分の言語に変換している」
レイは口を開きかけた。
だが何を言うかが、決まらなかった。
「……何も申し上げることはありません」
「前にも同じことを言いましたね。何も答えないのではなく、答えを選んでいるだけだということは、今回は分かっています」
ナディアの声に、怒りはなかった。
だが納得もなかった。
「一つだけ聞かせてください。あなたは、あの店を法で守った。暴力ではなく……最初からそうするつもりだったんですか」
レイは答えなかった。
答えなかったのは、考えていたからではなかった。
「……数字で解ける問題に、拳を使う理由がありませんので」
ナディアの目がわずかに揺れた。
「合同実習で会いますね」
ナディアが踵を返した。
歩調は速かったが、あの日のように振り返らないわけではなかった。
二歩目で、一瞬だけ足が止まった。
止まって、また歩き出した。
レイは渡り廊下に立ったまま、その背中を見ていた。
証拠を集め、構造を読み、論理で問う。
レイ自身がメルテンに対してやったことと、同じだった。
研究棟の渡り廊下を抜けた時、エルヴィンの部屋の前を通った。
扉が半分開いていた。
「入れ」
呼ばれた気配はなかった。
だがエルヴィンの声は、壁の向こうでも聞こえる類のものだった。
レイは扉をくぐった。
机の上に文献が二冊。
一冊は見覚えがある。『同盟形成期の諸国文書集成』の6章以降が含まれた巻だ。
「六章までは既に理解しているな」
レイは一拍だけ考えた。
「書いてあることは理解できました。書いてないことが何かも」
「書いてないことが何か分かるなら、なぜ書いてないかも分かるはずだ」
「……はい」
エルヴィンは文献に目を落としたまま、干菓子の欠片を指先で弾いた。
東方の文字が書かれた包み紙が、机の端で揺れた。
前回来た時と同じ位置にある。
食べかけのまま、何ヶ月も。
最後に持ってきた人間の手土産を、食べ終えずに残している。
……その意味をレイは問わなかった。
「ならばまだ間に合う」
その一言の意味を、レイは問い返さなかった。
問い返せなかった。
エルヴィンはもう次の文献に目を落としている。
研究棟を出ると、秋の陽が長い影を作っていた。
「間に合う」という言葉が、壁に貼った白い紙片の上に重なった。
まだ書いていない。
まだ書かなくていい。
書かないことが、まだ許されている時間の中にいる。
その時間がいつまで続くかは、レイの帳簿には載っていなかった。
***
放課後の学院の図書館。
ジュリアス・ヴァルトシュタインは、本を読むふりをしていた。
戦史の教科書。
3ページ目から先に進まない。
昼の中庭が、頭の中で回っていた。
普段のレイは、興味がないから穏やかだ。
あの時のレイは、興味がないふりをして穏やかだった。
メルテン商会の営業停止。
灰猫商会がそれを追い込んだ。
そしてレイの5日間の欠席……時期が一致している。
もう一つ。
あの賭け屋は店を焼かれたという。
そしてレイの袖には、今朝……
ジュリアスは首を振った。
点が繋がりかけている。
だがジュリアスは、それを繋ぐことをまだ自分に許していなかった。
繋げてしまったら、「お前は何を隠しているんだ」と聞かなければならなくなる。
聞いた瞬間に、今の距離が変わる。
だが本当に怖いのは、そこではなかった。
聞いて、レイが答えてくれるなら、まだいい。
怒られてもいい。
嘘をつかれてもいい。
嘘には嘘の理由があるということくらい、分かっている。
怖いのは、聞いた後に、あの穏やかな顔のまま何も返ってこないことだった。
微笑んだまま、何も渡されないこと。
その沈黙の中に、自分の居場所がないと知ること。
答えが怖いのではない。
答えのない場所に、自分がいることが怖い。
教科書を閉じた手で、さっき渡したハンカチの感触を思い出していた。
聞かなくてもいい。
聞かなくても、手は伸ばせる。
それが自分にできる友情の形だと、ジュリアスは思った。
それを格好悪いとは思わなかった。
ジュリアスは教科書を閉じ、図書館を出た。
廊下の窓から夕日が差し込んでいた。
学院の塔が赤く染まっている。
その塔の向こうに下町がある。
向こうからナディアが歩いてきた。
すれ違いざまに、お互いに声はかけなかった。
だがすれ違った後、ジュリアスはふと振り返った。
ナディアが手に抱えていたのは、軍事教本ではなかった。
自治法の条文集だった。
ジュリアスは首を振って、歩き出した。
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