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第24話「二つの噂」

 出席率が29%になった。

 ヘルマン教授はそれを見て、溜め息をついた。


「ラマリン。先週から5日連続で休んだな」

「体調を崩しておりまして」

「5日間ずっとか」

「季節の変わり目には弱いもので」


 教授は追及しなかった。

 ただ代わりに一言だけ。


「来週に迫った合同実習には出るそうだな。休まないように」

 レイは頷いて、席に着いた。


 窓から秋の陽が差している。

 木漏れ日が机の上をゆっくり動いていた。


 紙と黒板とインクの匂い。

 教授の声。

 ペンが走る音。


 5日前には、自分の店が燃える匂いの中にいた。


 レイは机の端に目をやった。

 右手が、何かを探すように一瞬だけ動いた。


 カップがあるはずの場所。

 ここには、ない。

 いや、もうどこにも、ない。


 教授の声が続いている。

 レイは手を膝の上に戻し、講義を聞くふりをした。


「よう、生き返ったか」

 窓際の席から、ジュリアスが手を挙げた。


「死んではいませんよ」

「それ前も聞いたぞ」

「レイさん、大丈夫?」


 前の席から、マリエルが振り返った。


「大丈夫です。少し寝不足が続いていただけですので」

「少しって5日間?」


 だがマリエルはそれ以上追及せず、少しだけ心配そうな顔をした。


「無理しないでね」

 マリエルの声は、下町では聞かない種類の声だった。


 ジュリアスが横から軽く笑った。

 いつもの朝の風景だった。


 ただ、ジュリアスの笑顔が一瞬だけ遅れたことに、レイは気づいていた。

 気づいたが、気づかなかったふりをした。

 そしてジュリアスの目が、レイの袖に一瞬だけ止まったことにも。


 左の袖口。

 繕い切れていない焦げ跡。


 ジュリアスは何も言わなかった。

 何も聞かなかった。


 袖の焦げ跡。

 5日の不在。


 灰猫商会が焼けた噂は、寮にも届いている。

 二つの点を結ぶ線は、引こうと思えば引ける。


 引かないと決めている。

 引けば、あの男は二度と隣に座らなくなる。


 だから今日も「生きてたか」と笑って、それだけだ。


 講義が始まり、半刻が過ぎた。

 ノートを取る手が止まった時、レイの机の上に布が一枚、滑り込んできた。


 ハンカチだった。

 上質な麻地。

 ヴァルトシュタイン家の紋章が隅に刺繍されている。


「袖」


 ジュリアスが小声で言った。

 視線は黒板に向けたまま。


「焦げてる。それで隠せ」


 レイは一瞬、手を止めた。

 ハンカチを受け取り、左の袖口に巻いた。


「……ありがとうございます」

「礼はいらない。洗って返せ」


 それだけだった。

 何も聞かなかった。

 焦げの理由も、5日間の行方も。


 だがハンカチを渡した。

 レイは袖口に巻いたハンカチの手触りを、講義の間じゅう感じていた。


 昼休みの中庭。


 ジュリアスとレイは、いつものベンチでパンを齧っていた。

 中庭の木が色づき始めている。

 風が吹くたびに、葉が一枚ずつ落ちた。


「合同実習のチーム見たか。お前、Fチームだろ。あの編成、正直きついと思うけど」

「そうですね。指揮官の力量が未知数なので、判断はまだできませんが」

「判断はまだできませんって……お前は審査員か」


 レイがパンをひと口齧った。

 ジュリアスはリンゴを丸齧りしている。


「そういえば、アレクセイのところ、来年弟が入学するらしい」

 ジュリアスがリンゴを齧りながら言った。


「真面目な子だって聞いた。兄貴とはタイプが違うらしい」


 レイはパンをひと口齧った。

 名前は聞かなかった。


 その時、隣のベンチから声が聞こえた。

 商学科の上級生らしい3人が、弁当を広げながら話していた。


「あの賭け屋、メルテンを潰したって?」

「マジだよ、例の灰猫商会。法的に営業停止に追い込んだんだと」

「しかも合同実習のオッズも出すって話だぜ」


 レイはパンを齧り続けた。

 表情は変えなかった。

 だがジュリアスの視線が、一瞬だけレイの横顔に向いたことを彼は感じていた。


 声が遠ざかった。

 風が中庭を横切って、落ち葉を数枚転がした。


「……灰猫商会、って」


 ジュリアスが言った。

 声の調子は軽かった。

 だがその目はレイを見ていた。


「人気ですね。商学科でも話題だそうで」

 レイは先回りして答えた。


 それはいつもの穏やかな声だった。


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― 新着の感想 ―
なんとか日常に帰って来た感じですが、なんというかギリギリな感じですね…いつ壊れてもおかしくないような。
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