第9話 決算報告書 完了版2 修正版.xlsx
直人がこの世界に来てから、3年が過ぎていた。
そんなある日、アィーダから生活上の更新手続きが必要だと告げられた。
<直人さん、身分証明の更新手続きが必要な時期となりました>
3年前にこの世界へ来た時点で、元の世界の佐々木直人は死亡扱いとなっていたため、記憶喪失の人物として、佐々木直人という同姓同名の人物が仮登録されていた。
今回はその仮登録から3年が経過したことで、本人確認を含めた正式な登録へ移行するための手続きなのだという。
実際に、直人の手に埋め込まれた識別デバイスのデータを更新する必要があるため、専門の施設まで出向く必要があるらしい。
年中暇な直人だったが、町へ出かけること自体はあまりなかった。
ただ、今回は自分の身分証明に関わる手続きだったので、すぐに出かける事にした。
「まあ、たまには外に出るか」
手続きといっても、指定された施設で本人確認を済ませ、いくつかの項目を確認するだけ。昔なら書類を書いたり、窓口で順番を待ったりしたのだろうが、100年経った未来では、案内に従って端末を操作するだけで、あっという間に終わってしまった。
せっかく街まで出てきたのだから、そのまま帰るのもつまらない。
直人は目的もなく、街をぶらぶら歩くことにした。
人口が増えたせいで、昔なら大して人がいなかった街でも、結構な人出だ。
実際には、店の多くは無人で運営されており、人々は思い思いの目的で店へ入り、デバイスをかざして必要なものを受け取ったり、食事をしたりしている。
そんな街を歩いていると、直人は妙な建物を見つけた。
5階建てくらいだろうか【人類文化体験館 Human Culture Experience Center】と書かれた建物の入口で女性が声を張り上げていた。
「いらっしゃいませー!」
ロボットではなく、人がやっていることを珍しく思った直人は、思わず足を止めた。
「いらっしゃいませ、どうぞー」
入口にいた若い女性に聞いてみる。
「人類文化体験館とは、何かを体験できる施設ですか?」
「はい、昔の人間の活動を体験するんです。ここ、そういう施設なんですよ。私はいま、呼び込みという仕事をしています」
入口には、さまざまな教室や体験施設の案内が表示されていた。
中には、組織業務体験という、なにやら見たことがあるような机を並べ、端末に向かう人々の写真まである。
「……仕事みたいなのまであるのか」
「仕事ではありません。仕事が必要だった時代の活動を、娯楽として体験する場所です」
呼び込みの仕事をしている女性は、呼び込みの仕事という体験をしているのだと、直人はそこで初めて気が付いた。
仕事をする必要がない世界で、仕事をしていた時代のことを遊びにする。
何とも奇妙な話だが、今の世の中の人々は仕事をどのようにとらえているのか、少しだけ見たくなり、直人はそのままビルの中へ入っていった。
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料理教室に粘土細工、いくつかの教室を覗いていると、ある部屋の前で直人の足が止まった。
ガラス越しに見えたのは、10台ほどであろうか、パソコンが並んだ教室だった。
直人が会社で使っていたような液晶ディスプレイモニターは、100年後にはなくなっていたが、ここにはそのモニターが置いてあるのだ。
パソコンの前には、それぞれ一人ずつ人が座っていた。
机の上には、キーボードとマウスまで置かれている。
それぞれの画面には、昔のPCとよく似たデスクトップ画面が表示されているが、操作している人たちは皆、どこかぎこちない。
マウスを持ったまま画面を見つめている人、キーボードのキーを一つずつ確認しながら押している人。
隣の人の操作を覗き込んでいる人。
中には、何か困ったことがあるのか、机の上に置かれた小さな端末に向かって話しかけている人までいた。
教室の前にはホワイトボードがあり、そこには大きな文字で【コンピューター文化体験】と書かれていた。
その下には、本日の体験内容として、
【OSの基本操作】
【マウスの基本操作】
【キーボード入力】
【ファイルを開く】
と並んでいる。
教室の中から一人の女性が顔を上げた。
「先生、これどうするんですか?」
「ちょっと待ってください。今、AIに聞きますね」
<ご質問の内容を確認しています>
直人が興味深そうに覗いていると、教室の中にいたインストラクターと目が合った。
「あ、見学ですか?」
「え? ああ、まあ……」
「よかったら中へどうぞ。見学だけでも大丈夫ですよ」
特に断る理由もないので、直人は教室へ入った。
壁には、歴代のコンピューターやソフトウェアの写真が並んでいる。
その中に、直人には見慣れた文字があった。
「……Windows?」
「ご存じですか?」
「そりゃまあ、使ってましたから。でも、AIというバージョンは知りません。うちの会社では11まででした」
「え、11? 使っている場所があるんですか? どこかの古い機械体験施設とか?」
教室の空気が変わった。
直人は周りの生徒たちの視線が集まっていることに気付き、少々恥ずかしくなる。
インストラクターも、参加者たちも直人を見ている。
「えっと……」
何となく居心地が悪くなった直人は、軽く頭を下げた。
「佐々木です。佐々木直人。普通の会社員でした」
「会社員……ですか?」
「はい。普通にパソコン使って仕事してました」
その言葉に、教室の中がさらに静かになった。
「あなたはWindowsを実際に使ったことがあるんですか?」
「あ、いえ、まあ。そうですね。ちょうどAIが出始めて……いや、この時代には既にありましたね」
「……何?」
インストラクターは少し困ったように笑った。
「では、せっかくですから、ちょっと触ってみますか?」
教室に置いてあるPCの画面には、過去のWindows環境らしきものが表示されていた。
Windows AIが登場するよりも、ずっと前、AIがOSそのものに組み込まれる以前のコンピューターだ。
パソコンの画面を見て、直人は妙な懐かしさを覚えた。
「うわ……まんまだな」
参加者たちは、直人の言葉を不思議そうに聞いている。
インストラクターが直人に説明を始めようとした、その瞬間だった。
直人はスタートメニューを開くと、設定からデバイスの情報を確認し、さらにデバイスマネージャーを開いて表示されたハードウェア構成を一通り眺める。
「へえ……」
CPU、メモリ、ストレージ、どれも直人が知っている100年前のパソコンとは違っていた。
「これ、100年前のものとは別物ですね。Windowsというより、何かエミュレーターか何かで再現されている?」
なぜかインストラクターは口をパクパクさせながら、小さな声で答えた。
「えーっと……よく分からないです」
直人はインストラクターの顔を見る。
「だって、これ仮想環境ですよね?」
「……たぶん」
「たぶん?」
教室の中に、妙な沈黙が流れた。
参加者の一人が、恐る恐る尋ねた。
「佐々木さん、それ……どうやったんですか?」
その言葉を聞いた瞬間、直人はようやく気づいた。
どうやら自分は、とんでもなく古い技術を知っている人間として扱われているらしい。
直人は困惑する。
自分がやっていることは、かつて会社員なら珍しくもなかった作業だ。
それが100年後の世界では、まるで特殊技能のように見られている。
インストラクターまで、いつの間にか直人の操作を覗き込んでいた。
「まあ、PCなんてこの時代の人は触らないだろうし、無理もないか……」
そう思いながら、直人はドキュメントフォルダを開いた。
中には、いくつものファイルが並んでいる。
文書ファイル、表計算ファイル、画像ファイル。
どうやら、当時のパソコンで使われていたデータまで再現されているらしい。
「へぇ……ここまで再現してるのか」
直人は何気なくファイルを眺める。
【決算報告書.xlsx】
【決算報告書 最終.xlsx】
【決算報告書 最終修正版.xlsx】
【決算報告書 完了版.xlsx】
【決算報告書 完了版2.xlsx】
【決算報告書 完了版2 修正版.xlsx】
【決算報告書 完了版3.xlsx】
【決算報告書 修正版.xlsx】
【決算報告書 修正版2.xlsx】
「こんな所まで再現されるのって凄いなw」
直人が苦笑いしていると、参加者たちは、なぜか真剣な顔で頷いている。
参加者の一人が直人に語り掛ける。
「当時の人は、こうやってデータを管理していたんですね」
「いや、これは管理できてないと思います」
とりあえず、Excelファイルの一つを開いてみると、かなり本格的な決算資料であることが分かった。
売上高、売上原価、売上総利益、販売費及び一般管理費、営業利益、経常利益といった項目が並び、各年度の実績と予算、それに対する増減まで細かく記入されている。
さらに部門ごとの固定費と変動費、売上原価の内訳、前年度との比較、予算との差異なども表になっており、セルには複雑な計算式がいくつも設定されていた。
「……これ、どこから持って来たんだよ」
単なるExcelの練習用に作られたサンプルには見えない。
もしかすると、本物の会社が実際に使っていた決算資料を、そのまま教材として持ってきているのかもしれない。
直人は何気なくセルをクリックし、F2キーを押して、セルに設定された数式を表示させる。
SUBTOTAL、VLOOKUPといった見慣れた関数が並んでいた。
3年ぶりだが、何故か懐かしい。
直人は笑いながら、ファイルの中身を確認していた。
「もしかして……プログラムが作れるんですか?」
「え?」
「AIなしでコンピューターを直接操作できるんですよね?」
「当時はこぱいちゃんが出たばかりですから、AIが無かったわけではないですよ」
「そうなんですか?」
「はい。AIは普通にありました。ただ、こういう作業は基本的に人力です」
直人がそう答えると、参加者たちは顔を見合わせた。
「ところで、これは何をするためのものですか?」
「これは……会社が使う表計算ソフトで、数字を入力して計算したり、グラフや表を作ったりするんです」
参加者たちは互いに顔を見合わせたり、首を傾げたりしている。
どうやら、いまひとつ理解できていないらしい。
直人は少し考えた。
「お金があった時代に、会社という組織が国や株主に会社の経営状態を報告するときなんかに使っていました」
「株主というのは?」
「会社に投資して、その会社の所有権の一部を持っている人たちです」
参加者たちは、ますます難しそうな顔をする。
しばらくして、そのうちの一人が直人に尋ねた。
「……何故、AIにやらせなかったんですか?」
「いや……当時は、それが普通だったんですよ」
参加者たちは、誰も何も言わなかった。
どうやら、100年前の人間が会社という組織を運営するために、人間の手で数字を入力し計算結果を確認していたことのほうが理解しがたいらしい。
インストラクターが直人に向かって声をかけた。
「佐々木さん……もしよかったら、次の回も参加してみませんか?……私たちも、昔の操作方法をもっと教えてもらえると助かります」
直人は懐かしいWindowsのデスクトップを眺めた。
昔は仕事で嫌というほど触っていたパソコンだ。
あの頃の自分は、いったいどんな気持ちでこの画面を見ていたのだろう。
今では、ただの遊びだ。
「まあ……暇だし、いいですよ」
直人はそう答えた。
こうして直人は、街で偶然見つけた「過去のコンピューター文化を体験する教室」に、しばらく通うことになった。
本人にとっては、昔のパソコンを触っているだけ。
しかし周囲から見れば、彼は古代のコンピューター技術を自在に操る、極めて珍しい人間だった。




