第五話 返事
職人たちへの説明は、思ったより時間がかかった。
私はJAXA(宇宙開発の国家機関)の文書を、できるだけ平易な言葉に直した。宇宙ステーションの環境。重力がない状態での皮膚への負担。同じ衣類を三週間着続けることの、身体的・精神的な影響。
職人たちは黙って聞いた。
質問が来たのはヨシコさんからだった。
「宇宙で、下着が問題になるとね」
「なります。無重力状態では、皮膚が衣類から受ける圧力の分布が地上と変わります。重力で自然に落ちるものが、落ちない。縫い目やワイヤー(金属芯骨)が、ずっと同じ場所に当たり続ける」
「ほお」
ヨシコさんは腕を組んだ。
「宇宙飛行士は何人のために作るとね」
「今回の依頼は、長期滞在クルー四名分の試作です」
「四人。男女両方?」
「男性二名、女性二名だそうです」
ヨシコさんはしばらく黙った。
「身体を直接診られるとね」
「依頼文書によれば、試着の機会は設けてもらえます」
「じゃあ、できる」
あっさりした答えだった。
反応が分かれたのは、量産の話をしたときだ。
試作に成功した場合、将来的には量産の可能性がある。文書にはそう書いてあった。
トミエさん――浜田トミエ、六十八歳、最も寡黙な職人――が、初めて口を開いた。
「量産は、うちじゃできん」
断言だった。
「四人分は縫える。でも、百人分は縫えん。手仕事に限界がある」
「今回の依頼は試作までです。量産は別の業者に委託する前提だと思います」
「それなら聞こう」
トミエさんはまた黙った。
社長が全員を見回した。
「やってみる気のある人だけ、手を挙げてくれ。無理にとは言わん」
最初にヨシコさんが手を挙げた。
次にサチコさん。
トミエさんは少し遅れて、静かに上げた。
残りの三人も、それに続いた。
全員だった。
翌日、私はJAXA(宇宙開発の国家機関)に電話した。
城島さんが出た。
「末永繊維として、試作依頼をお受けします」
「ありがとうございます。では、詳細の打ち合わせのため、一度筑波にお越しいただけますか」
「社長と、私が伺います」
電話を切った後、社長が私を見た。
「あんた、一緒に来てくれるね」
「……私が行っていいんですか」
「あんたが一番、あの文書を読み解けとる。通訳が要る」
通訳。
私はその言葉が、少し引っかかった。
JAXA(宇宙開発の国家機関)の言葉と、職人の言葉の、通訳。
東京での私の仕事は、人間の言葉を数値に変換することだった。
今は、数値の言葉を人間の言葉に変換することを、求められている。
逆方向だと気づいて、少しだけ、奇妙な気持ちがした。
筑波に行ったのは、翌週の木曜日だった。
JAXA(宇宙開発の国家機関)の施設は、思ったより広かった。
会議室に通された。城島さんと、もう一人。
「若田美咲です」
三十代後半。落ち着いた顔をしている。名前を聞いてすぐ、私は記憶を探った。宇宙飛行士。長期滞在経験者。
「今回の開発で、現場の声を直接お伝えするために同席しています」
若田さんは社長に会釈して、それから私を見た。
「末永繊維さんの製品、私も知っています」
「……ありがとうございます」
「宇宙で一番困ったのは、眠れないことでした」
若田さんは静かに言った。
「温度も、音も、光も、全部コントロールできる。でも、身体が落ち着かない。何かが、違う。最初はストレス(精神的負担)だと思っていました。でも後から、肌着の縫い目が、無重力状態では肩甲骨に当たり続けていたことがわかった」
「眠れないのは、縫い目のせいだったんですか」
「原因の一つ、です。でも、一つであっても、百二十日以上続くと、身体への影響は無視できない」
社長が頷いた。
「着ていることを忘れる、ということが、宇宙では安心することになる」
「……そういうことです」
若田さんは少し間を置いた。
「着ていることを忘れてしまう恐怖、というものもあります」
「恐怖、ですか」
「長期滞在では、皮膚の感覚が変わってきます。地球で感じていたものを、感じにくくなる。そのとき、肌着が確かにそこにある、という感覚が、心の支えになることがある」
私は若田さんを見た。
着ていることを忘れる、と、着ていることが確かにわかる。
それは矛盾しているように聞こえた。でも、矛盾していない気もした。
祖母のノートの一節が、頭の中で動いた。
安心の上に、忘れることができる。
了
次回 第六話 報告




