第四話 測れないもの
工場に来て十日が過ぎた。
私はまだ、自分がここで何をしているのか説明できなかった。社長に頼まれたわけでも、お金をもらっているわけでも、勉強に来ているわけでもない。ただ毎朝、引き戸を開けて、椅子に座って、職人たちの作業を見ている。
それだけだった。
でも、何かが変わり始めていた。
工場の音が、前と違って聞こえる。六台のミシンの音が、今はそれぞれ違う音として聞き分けられる。ヨシコさんの機械は少し低い。サチコさんのは少し速い。奥の端にある一台は、定期的に布送りの音がずれる。
私が観察しているのか、身体が勝手に覚えているのか、判断がつかなかった。
その日の午後、末永社長が私を呼んだ。
社長室、というものはなかった。奥の小さなスペースに机が一つ、書類の束が積まれている。
「座って」
パイプ椅子を勧められた。社長は向かいに座って、少し間を置いてから言った。
「あんた、このまま何をしたいの」
「……それは」
「働きたいなら働けばいい。でも、それを決めるのはあんた自身やけんね」
私は答えられなかった。
何をしたいのか、本当にわからなかった。東京を出てくる前も、出てきた後も、この工場に来てからも。自分が何を求めているのか、ずっとわからないままだ。
「正直に言います。まだわかりません」
「正直でよかった」
社長は少し笑った。
「わからんでいい。ただ、わからんことを誤魔化すな、ということだけ覚えておいて」
そのとき、工場の引き戸が開いた。
見慣れない顔だった。四十代くらいの男性。スーツ姿。工場の空気に、明らかに馴染んでいない。
社長が立ち上がった。
「あ、来たね」
男性は私を一瞬見て、それから社長に会釈した。
「末永さん、お邪魔します」
「こちら、JAXA(宇宙開発の国家機関)の城島さん」
私は聞き返しそうになった。
JAXA(宇宙開発の国家機関)。宇宙。この、古びた下着工場に。
城島さんは薄いバッグから封筒を取り出した。
「改めて、正式なご依頼文書をお持ちしました」
社長は受け取って、私に渡した。
「これ、読んでみて。あんたの方が読み解くのが早そうやけん」
封筒の表には、国の機関のロゴと、「極秘」の朱印。
私は開けた。
文書は、簡潔だった。
要約すれば――長期宇宙滞在における、肌着の開発依頼。
国際宇宙ステーション(こくさいうちゅうすてーしょん)での長期滞在では、着替えの回数が極端に制限される。同じ衣類を数週間着続ける。その際、皮膚への影響が深刻な問題になっている。かゆみ、炎症、感覚の鈍化。特に睡眠中、身体の感覚が衣類によって妨げられることが、精神的な疲弊にも繋がっている。
末永繊維の「着ていることを忘れる布」という特性に着目した。
開発期間、十八ヶ月。
私は文書を二回読んだ。
「……これは」
社長が頷いた。
「先月、最初の打診があった。あんたが来る直前やった」
「社長は、受けるつもりで?」
「わからん」
社長は珍しく、迷っている顔をした。
「うちの職人は全員五十代以上や。長期の開発プロジェクト(仕事)に耐えられるか。また、量産できるのか。うちの縫製は一点一点が手仕事やけん、スケール(規模)の話になったら対応できんかもしれん」
「でも断る気もない」
「……なんで?」
社長は少し遠くを見た。
「フミさんが、ずっと言いよったことがある。『この布は誰かの皮膚の続きにならないかんとに、まだそこまで届いとらん』って。宇宙飛行士の皮膚に届くなら、それはフミさんの夢の続きやろうと、思うた」
私は封筒を見た。
祖母のノートに書いてあった言葉が、頭の中に浮かんだ。
着ていることを忘れてしまう布を作ることができたら、それは本当に皮膚の続きになる。
城島さんが帰った後、社長が言った。
「静ちゃん、あんたに一つ頼みがある」
「何ですか」
「職人たちに、説明してやってくれ。あの文書、私が読んで説明するより、あんたが噛み砕いて話した方が伝わると思うけん」
私は少し考えた。
「わかりました。でも、一つ確認させてください」
「何?」
「社長は、職人さんたちに判断を任せますか。それとも、社長が決めますか」
社長は私を見た。
「任せる。みんなの仕事やけんね」
私は頷いた。
工場に戻った。六人の職人が、手を止めずに作業している。
私はヨシコさんの隣に立った。
ヨシコさんは顔を上げなかった。
「話がある」
それだけ言ったら、ミシンの音が一台ずつ、静かになっていった。
了
次回 第五話 返事




